2018.06.24【江戸御府内八十八ヶ所めぐり】⑭佐野俊一郎報告
江戸御府内八十八ヶ所めぐり⑭
平成30年6月24日(日)天気小雨後晴
リーダー:佐野俊一郎
協力者:佐々木純子・平山亨参加費徴収
参加L:柴崎実・小林妙子・中嶋要一
参加者:21名 男性12名 女性9名
江戸御府内八十八ヶ所めぐりも平成29年5月7日発願して14回で結願となりました。
営団丸ノ内線中野坂上(1番口)9時集合
営団丸ノ内線中野坂上→宝仙寺→桃園小学校(区内で最初の公立小学校)→神田川月見橋→和田廣橋(善福寺川合流)→方南橋(環七通り)一本橋谷→文殊院2時頃解散
丸の内線 都営線中野坂上9:00 青梅街道を西に9:03
第12番 宝仙寺 真言宗豊山派 御本尊:不動明王
寺宝は「宝中の仙」と称される宝珠
宝仙寺前信号右折9:06 山門と宝仙寺寺号標
山門・阿・吽の仁王像が納められる 鐘楼まえに中野町役場跡碑
明治28年から昭和の初期まで中野町役場が、また中野区役所が境内に置かれた。
三重塔と臼塚 大師堂教化活動のお堂山門右
石臼塚由来
中野区と新宿区との間を流れる神田川には江戸時代から水車が設けられて、そば粉を挽くことに使われていた。
そばの大消費地となった江戸、東京に向けて玄そばが全国から中野に集められ製粉の一大拠点となり、中野から東京中のそば店に供給されたため、中野そばと言われるようになった。
その後、機械化により使われなくなった、石臼は道端に放置され見向かれなくなっていった。
それを見て当山、宝仙寺第五十世住職富田教純大僧正(宝仙学園創立者)が人の食のために貢献した石臼を大切に供養すべきであるとして、境内に「石臼塚」を立て供養した。
平成十八年十二月吉日 中野区商店街連合会
社団法人中野法人会
正面右に大書院寺務室と法事等に使う 本堂
本堂は鎌倉期の不動明王を中心に五大明王像が安置されている。降三世明王・軍荼利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王
御影堂弘法大師の尊像を安置 鐘楼
宝仙寺信号を南に下る9:21 桃園小学校区内最初の公立小学校
神田川月見橋9:33 神田川を西上流に向かう
中野新橋9:39 新橋脇の小公園
丸の内中野線新橋駅 神田川を上る
神田川右岸に営団中野検車区 神田川・善福寺川の合流部10:00
善通寺川上流 中野検車区と神田川上流
神田川上流
環七通り方南橋10:21 神田川環状七号調節池
神田川取水施設
施設の上は公園に整備
第88番 文殊院 高野山真言宗 御本尊:弘法大師御府内八十八ヶ所札留の寺院
文殊院の縁起
当寺開山は、有名な高野山興山寺の木食応其上人とされるが、いわゆる勧請開山でしょう。実際の開山は興山寺2世勢誉で、徳川家康の帰依を受けて駿府に寺地を拝領し、一寺を建立したのが開創である。寛永4年興山寺3世で当寺3世となった応昌が浅草に寺地と駿府城北の丸の建物を拝領したのが文殊院の始まりである。 江戸期の当寺は、芝二本榎(港区)の学侶方高野寺(現高野山東京別院)と共に、高野山の行人方の触頭として真言宗では重要な寺であった。(杉並区教育委員会掲示より)
一本橋で左折10:32 南東に坂を上がると左に弘法大師標石
奥に文殊院山門 文殊院本堂
文殊堂 文殊堂左奥に石造りの五重塔
五重塔のまわりに、百八体の弘法大師の石像が安置されている。
空海(弘法大師)は四国に、四国八十八箇所のほかにも数多くの足跡を残しており、それらは番外霊場として人々の信仰を集めてきた。それらの番外霊場のうち20の寺院が集まって、1968年(昭和43年)に霊場として創設されたものが四国別格二十霊場である。 四国八十八箇所に四国別格二十霊場を加えると百八となり、人間の百八煩悩と同じになることから「煩悩を滅するのもよし」。この文殊院さんにあります。