2022.12.17【横須賀のトンネル道】報告 中嶋要一
平六トンネルは、市内で最も狭い隧道。浦郷小学校への通学路の為、素掘りで掘られたのを昭和51年に改修しました。(平六隧道の銘板ではなく、平六トンネルになっています。)
2022年12月17日(土) 天気:くもり レベル②:ウオーキング2
◇担 当 L :中嶋要一
◇投 稿 者 :鈴木榮男
◇参 加 者 :8名(女性6名、男性2名)
◇所要時間 :2時間50分(休憩,食事等含む)
◇歩行距離 :約7km
<コース>
追浜駅10:20→向坂隧道10:32→平六トンネル10:49→筒井隧道11:02→梅田隧道11:17→
船越隧道11:51→田浦隧道12:03→新吾妻隧道12:10 →新長浦隧道12:18→12:45安針台公園
(昼食)13:10→13:15安針塚駅
スタート地点の追浜駅。追浜駅は京急線と国道16号、整備が進む国道357号などが近接しており、日産自動車の工場や横浜DeNAベイスターズの施設などが近くにあります。
<向坂〈むかいざか)隧道>
竣工 昭和8(1933)年 全長67m (鷹取町~浦郷町)
車両通行不可。地元の生活、通学道路。素掘りを昭和58年改修。
隧道の上に民家が建っていました。
トンネルを抜けてすぐ、擁壁の中にお稲荷さんが収納されていました。
急傾斜地崩壊危険地域(追浜南町1丁目A)の標示杭がありました。
<平六隧道>
竣工 昭和4(1933) 全長:90m (追浜町~追浜東町)
市内で最も狭い隧道。浦郷小学校への通学路の為、素掘りで掘られたのを昭和51年に改修。平六の名は、かっての地名「平六ヶ入」に由来するという。トンネルができるまでは浦郷小学校へ通う児童は、山裾を大回りして学校へ通っていた。太平洋戦争時に航空廠の倉庫とされ利用できなくなった。
トンネル内。幻想的だ。色々な形状のトンネルがあるので楽しみだ。
トンネルをぬけると急傾斜地に擁壁があり、マンション等が建っていました。
<筒井隧道>
竣工 明治38(1905)年 全長:68m (追浜東町~浦郷町)
昭和8(1933)年の改修時に出入口を緩やかな登りにするため路面を切り下げたので高さが7m近くになり、両側の民家の入口に石段が取り付けられました。
けたたましいチエンソーの音が聞こえてきた。樹木を伐採していた。たぶん、擁壁工事?
<梅田隧道>
竣工 明治19(1886)年 全長:204m (浦郷町~船越町)
付近が軍事施設として買収され、かつ、立ち入り禁止による渡船中止で地元有志が負担した民間建設の市内最古の隧道。
<新船越隧道>
竣工 昭和23(1948)年 全長:100m
左側は田浦隧道 竣工:大正15(1926)年 全長115m
右側は、新田浦隧道 竣工:昭和17(1942)年 全長 119m
<新吾妻隧道>
竣工:昭和18(1943)年 全長:151m
<トンネルと隧道の違い?>
トンネルは英語のtunnellに由来しており、古語tunne「大きな樽」が元になっているようです。ラテン語tunna、重さの単位tonは姉妹語。英語でも中世には樽という意味で使われており、後に煙突、パイプなど筒状のものを表すようになった。地下にに掘った通路をさすようになったのは18世紀以降と言われています。日本では、かって中国語と同じく隧道(すいどう、ずいどう)と呼ばれていましたが、常用漢字以外の文字(隧)が使用されているために、第二次世界大戦後の漢字制限や用語の簡略化、外来語の流入などの時代の流れにより、今日では一般的には「トンネル」と呼ばれるようになった。ただし、正式名称には「隧道」と記されることも多い。出典「追浜トンネル物語」大人の散歩・散策のしおり
<トンネルの定義>
社団法人土木学会のトンネル用語辞典(昭和62年/1987年)より
昭和45(1970)年OECDトンネル会議で『トンネルとは、計画された位置に所定の断面寸法をもって設けられた地下の構造物で、その施工法は問わないが、仕上り断面積は2m²以上のものとする。』と決定した。一方、「洞門」(箱根の函嶺洞門、菊池寛の青の洞門等)は、がけ崩れの危険個所に造られたトンネルで、崩れた土砂の下敷きにならないように庇屋根をつけた構造物になっているので、岩場の反対側に「明り取り」をつける。
<リーダーコメント>
曇り空の下、雨の心配も懸念しましたが、雨にもあわず、横須賀の歴史遺産のトンネル(隧道)散策を和気あいあいと楽しみました。参加者の皆様、有難う御座いました。 中嶋要一
2022/12/19 月曜日 at 14:12
短くも、ユニークな歩きで、三浦半島は改めて丘だらけと再確認しました。アカデミックなトンネル解説、なるほどでした。中嶋リーダーありがとうございます。鈴木さん、たくさんの記録写真助かります。ご参加のみなさま、ありがとうございました。