2024.02.24【高松山(御幸山)】報告 中嶋要一
神奈川県厚木市小野 「小町神社」
「小野小町」の生誕伝説のある地域は全国に点在しており、数多くの異説がある。
花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに
◇桜の花の色がすっかり色あせてしまったように、私の容姿もすっかり衰えてしまったなあ。春の長雨が降り続き、私がもの思いにふけっている間に 百人一首 小野小町の歌です。
2024年2月24日(土) 天気:晴れ レベル[3]一般向
◇担 当 L :中嶋要一
◇参 加 L :松木千恵子
◇参加S L :桜井敏子
◇協 力 者:鈴木榮男(投稿)
◇参 加 者:47名(女性:36名、男性:11名)
◇所要時間:3時間55分
◇歩行距離:7.8km
<コース>
小田急線愛甲石田駅10:05→11:30小野神社11:50→12:00小町緑地入口→12:12小町神社(昼食)12:49→秋葉神社12:58→13:01みはらしの丘13:05→秋葉神社13:10→
13:27高松山(御幸山)13:47→14:00高松山入口バス停=本厚木駅
<リーダー挨拶>
2~3分ぐらい歩いた公園 参加リーダー、サブリーダー及び協力者等紹介 コースの説明
前方に大山三峰 その左には大山(写真に写っていません) 右側の山は高松山(御幸山)
小野神社の由緒
※愛甲三郎
愛甲三郎季隆は、頼朝の調度懸(儀式の際弓矢を持って供奉する役)を勤めるなど、射芸により仕えている様子がうかがえます。また、実戦では、元久2年(1205年)に初代執権の北条時政が、畠山重忠、重保親子を追討した際、畠山重忠の首を取ったとされています。その後、建暦3年(1213年)、鎌倉幕府の有力御家人の和田義盛の反乱(和田合戦)の際には、和田方に味方します。その戦いで和田方が大敗し、愛甲三郎季隆は戦死したため、愛甲氏は没落していきます。しかし、室町時代以降も弓の達者な愛甲三郎季隆の話は語り継がれていきます。厚木観光協会ホームページより
小町神社の由緒
※なお、小野小町の出生地については、伝承によると現在の秋田県湯沢市小野といわれており、晩年も同地で過ごしたとする地域の言い伝えが残っている。ただし、小野小町の真の生誕地が秋田県湯沢市小野であるかどうかの確証は無く、平安時代初期に出羽国北方での蝦夷の反乱で出羽国府を城輪柵(山形県酒田市)に移しており、その周辺とも考えられる。この他にも京都市山科区とする説、滋賀県彦根市小野町とする説、福井県越前市とする説、福島県小野町とする説、熊本県熊本市北区植木町小野とする説、神奈川県厚木市小野とする説など、生誕伝説のある地域は全国に点在しており、数多くの異説がある。
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秋葉神社。標高120m (秋葉神社~みはらしの丘~秋葉神社~高松山)
秋葉神社は、日本全国に点在する神社である。神社本庁傘下だけで約400社ある。また、歴史地理学者・米家泰作による2017年(平成29年)の調査では1,129社を数える。
神社以外にも秋葉山として祠や寺院の中で祀られている場合もあるが、ほとんどの祭神は神仏習合の火防(ひよけ)・火伏せの神として広く信仰された秋葉大権現(あきはだいごんげん、現在の遠州秋葉山秋葉山本宮秋葉神社と越後栃尾秋葉山の秋葉三尺坊大権現別当常安寺の二大霊山を起源とする)である。
一般に秋葉大権現信仰は徳川綱吉の治世以降に全国に広まったとされているが、実際には各地の古くからの神仏信仰や火災・火除けに関する伝説と同化してしまうことが多く、その起源が定かであるものは少ない。
祠の場合は火伏せの神でもあるため、燃えにくい石造りの祠などが見かけられる。小さな祠であることが多く、一つの町内に何箇所も設置されている場合もある。wikipediaによる。
高松山山頂
高松山は、神奈川県厚木市にある標高147mの山。丹沢山地の東部に位置する。別名、御幸山(みゆきさん)と呼ばれる。山頂に、明治天皇行幸記念碑がある。1881年(明治14年)4月30日、明治天皇はここから、近衛兵聯合野外演習を天覧した。
2011年に厚木市が行った試掘調査で木棺の素材と思われる炭化物が発見され、山全体が前方後円墳である可能性があると発表された
最後の木段 この後、舗装路を高松山入口バス停(標高40m)へ
<リーダーコメント>
玉川沿いの道を大山を正面に見ながら小野小町伝説の集落へ 小野神社~小町神社訪ねて高松山へと登りました。皆さんのご協力で無事山行を終えることが出来ました。ありがとうございます。中嶋要一