2011.05.08 【東亰十社巡り】報告
東亰十社巡り
実施日:平成23年5月8日(日)晴れ 一般向
リーダー:佐野俊一郎
協力者:青山昌次・平山亨・佐々木純子
参加者:31名・男性13名・女性18名
コース:JR亀戸駅北口改札口9:00集合→東太宰府天神(亀戸天神社)→横十間川(うるおいの木かげ道路)→錦糸橋→JR総武線→松代橋→旅所橋→亀島橋(高架下は竪川河川敷公園)→清水橋→猿江恩賜公園→本村橋→大島橋→クローバー橋→水上バス発着所→三島橋→岩井橋→横十間川親水公園→野鳥の島→豊住橋→千田橋→石住橋→茂森橋又は大栄橋→川崎橋→木場公園→木場親水公園→富岡八幡宮→深川不動→深川閻魔堂→清澄庭園→万年橋→芭蕉稲荷→正木稲荷(芭蕉庵史跡庭園)→隅田川左岸(川沿いの歩道)→一之橋→両国橋際→JR両国駅14:40解散
JR亀戸駅
出発 亀戸天神社の藤90:19
亀戸天神社
御祭神:天満大神(菅原道真公)
神苑の藤は、早春の梅とともに亀戸天神社を代表する花である。特に藤は東京の花の名5所として名高く、江戸時代から「亀戸の五尺藤」「亀戸の藤浪」として広く親しまれている。15棚100株の藤の盛りの華麗な美しさが、朱の太鼓橋と心字池の水面とのコントラス7トによって一段と際立ち、見事さを誇っている。
富岡八幡宮
御祭神:応神天皇外八柱
富岡八幡宮は寛永4年(1627年)、当時永代島と呼ばれていた現在地に御神託により創建されました。周辺の砂州一帯を埋め立て、社地と氏子の居住地を開き、総じて六万五百八坪の社有地を得たのです。世に「深川の八幡様」と親しまれ、今も昔も変わらぬ信仰を集める「江戸最大の八幡様」です。
深川不動尊
元禄16年(1703年)に始まった成田新勝寺の出開帳が深川不動の起こりで、明治14年不動堂が完成しました。 境内には「名優五代目尾上菊五郎の碑」「力石」などがあります。 この辺りは、富岡八幡、永代寺、深川不動の門前町として江戸情緒を色濃く …
深川のおえんま様
日本で始めて、お賽銭を投入すると、仏様のお説法がきける。それも願い事に応じて違った答をいただける。御祈願の19願意は、おえんま様(本体お地蔵様)の除(よ)け、と封(ふう)じ御利益として特別に有名。江戸三えんまの代表として庶民の信心を集めていた。各案内は深川観光協会、寺社のHPより
清澄庭園
清澄庭園は元禄期の豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷があったと伝えられる。享保年間には下総関宿藩主・久世氏の下屋敷となり、ある程度の庭園が築かれたと推定されている。
1878年(明治11年)、荒廃していた邸地を三菱財閥創業者の岩崎弥太郎が買い取り、三菱社員の慰安と賓客接待を目的とした庭園の造成に着手。1880年(明治13年)に竣工し、深川親睦園と命名された。三菱社長の座を継いだ岩崎弥之助は庭園の泉水に隅田川の水を引き込むなど大きく手を加え、1891年(明治24年)に回遊式築山林泉庭園としての完成を見た。なお、1889年(明治22年)には庭園の西側にジョサイア・コンドル設計による洋館が建てられている[1]。
その後、1923年(大正12年)に発生した関東大震災で庭園は大きな被害を受けて邸宅も焼失したが、図らずも近隣住民の避難場所となり多くの人命が救われた。それを受けて1924年(大正13年)、三菱3代目社長の岩崎久弥は当時の東京市に庭園の東半分を公園用地として寄贈。市は大正記念館の移築(1929年5月竣工)や深川図書館の新館舎建設(同年6月竣工)など整備を進め、1932年(昭和7年)7月24日に清澄庭園として開園した。
1973年(昭和48年)に東京都は残る西半分の敷地を購入。翌年から整備を開始し、1977年(昭和52年)に開放公園(清澄公園)として追加開園した。ウィキペディアより