2024.05.25【青蓮寺~天嶽院】報告 中嶋要一 | 東京ハイキング協会

2024.05.25【青蓮寺~天嶽院】報告 中嶋要一




天嶽院 新緑のトンネルと左右の苔むした絨緞。左手に鐘楼が見える。思わずシャッターを切る。・・・

2024年5月25日(土)  天気:晴れ レベル[2]一般向弱
◇担 当 L :中嶋要一
◇参 加 L :大倉昌子、松木千恵子
◇協 力 者 :鈴木榮男(投稿)
◇参 加 者 :22名(女性:14名、男性:8名)
◇所要時間 :3時間08分(休憩等含む)
◇歩行距離 :6.2km

コース
JR東海道本線大船駅鎖大師バス停10:30青蓮寺10:51古舘橋11:1011:30御霊神社11:3711:53弥勒寺11:5812:20村岡城址12:5213;10天嶽院13:3513:38藤が丘中学校バス停藤沢駅・大船駅

コース軌跡

標高グラフ

リーダー挨拶

青蓮寺(鎖大師)山門前で、リーダー挨拶。コース説明、参加リーダー及び協力者紹介等

青蓮寺
弘仁10年(819年)に空海(弘法大師)が開山し、長禄年中に善海が再興したと伝わる。天正19年(1591年)には徳川家康より手広村に25石の寄進を受け、関東壇林三十四院のひとつとしても名を連ねるなど徳川氏からは寺格を高く評価されていたようだが、天保4年(1833年)に起きた火災と関東大震災の時に寺院が倒壊した事によって寺の史料の多くが散逸しており、詳しい事はよくわかっていない。

近世初期には相模国に30以上の末寺を抱えていたが、江戸時代中期以降はその多くが、無住ないし廃寺となっており、寺院経営は苦しかったようである。

寺には、弘法大師が寺の裏手にある山(飯盛山)で修行をしている時に天女から仏舎利を託され、翌朝目を覚ますと青い蓮華(ハスの花)が一面に咲いていたという伝承が残っており、寺の名前もこれに由来している。なお飯盛山は戦後急速に宅地化が進んだ周辺区域の中でも比較的豊かな自然が残存しているため、鎌倉市でその自然環境を保護しようとする動きがある。

寺は神奈川県道304号腰越大船線と旧江ノ島道に面している。かつて旧江ノ島道から青蓮寺へ抜ける洞門が存在したが、県道304号が開通した際に山ごと切りくずされ、以降この洞門は入り口で封鎖されている。なおこの洞門の付近には庚申塔があり、かつては洞門の付近を村の境としていたことが推測される。 昭和25年に住職の草繋全宣師が京都大覚寺門跡に栄晋された時に多数の末寺が青蓮寺を離れ大覚寺末となる。ウィキペディア(Wikipedia)

青蓮寺境内


青蓮寺境内

 
不動明王坐像


青蓮寺境内


鐘楼


ヒメヒオウギ

 
ヒメヒオウギ                         ニワゼキショウ

 
コバギボウシ                        ホタルブクロ


スイレン 他にもいろいろな花が咲いていました。


塔と庭園について


柏尾川をわたる

御霊神社

大門 御霊神社の参道前は大門(大門町)と呼ばれている。

御霊神社>(宮前御霊神社)
天慶3年(940年)に村岡五郎良文平将門の討伐祈願のために山城国洛中(京都府京都市上京区上御霊前通)の御霊神社より勧請した。のちに鎌倉権五郎景政(鎌倉 景正)、葛原親王、高見王、高望王が祭神に加えられた。村岡五郎良文の居城だった村岡城址(藤沢市村岡東三丁目28番2号の村岡城址公園の近くにあることからこの神社から分霊したとされる神社が県内に16社あり(鎌倉市の御霊神社、葉山町の御霊神社、旧・大庭神社ともされる藤沢市大庭の熊野神社等)、そのほかにも同系列の神社が存在する。


御霊神社鳥居


急な石段を上る。脇に女坂あり

 
タブノキ 神木                        女坂


拝殿


下りは女坂

 
旗上山
※御霊神社の東に続く丘は平台とよぶが、源頼義が軍勢を集めるために、ここに白旗を立てたので旗立山ともいう

弥勒寺
山号は東耀山。旧本山は星下妙純寺、潮師法縁。 嘉禄2年(1226年)北条泰時が開基し創建した 。 正和4年(1315年)火災で焼失し、日善が弥勒如来を祀る弥勒堂を建てた。 天正元年(1573年)日祐が再興、日蓮宗に改宗した。


弥勒寺本堂 階段上り、右手の芭蕉


芭蕉について
バナナは熱帯性で日本では地植えしても育ちませんが、芭蕉は熱低地方に多く見られますが、耐寒性があるので日本でも露地栽培ができます。日本で地植えされて育っているバナナによく似た植物はぜんぶ、芭蕉です。バナナの実は大きくなり食用として用いられますが、芭蕉の実は基本的には食べられません。芭蕉の実は放置しておいても追熟しませんし、熟す前に干からびてしまうものがほとんどです。
芭蕉の苞は黄色で、バナナは一般的なものであれば紫色。葉の裏を見て、薄い緑色をしていれば芭蕉、白っぽい粉が拭いていればバナナである。

村岡城址公園


村岡城址公園にて昼食

村岡城は坂東八平市の祖、平良文が村岡に居住した10世紀後半に築いたとされ、城と言っても空堀をめぐらせた山城のようなものだったと伝えられています。元弘の変の時に、新田義貞がこの城に布陣して鎌倉へ突入して行った所でもあります。
藤沢市南東部の、鎌倉市に接する村岡東地区の丘陵上に立地する。
新編武蔵風土記稿』では、この地を「村岡五郎良文宅跡」と紹介し、平高望(高望王)の5男で、坂東八平氏の祖と言われる平安時代中期(10世紀)の武将・平良文(村岡良文)の相模国における居館であったとする伝承を掲載している。1333年(元弘3年)の新田義貞による鎌倉攻撃の際、義貞が拠点にしたとの伝えも残る

天嶽院

天嶽院の歴史は真言宗の古寺「不動院」から始まる。 源頼朝公が治承四年(1180年)、伊豆に兵を挙げ鎌倉を目指す途中立ち寄り、 不動明王様に大願成就の祈願をされたとの伝説がある。
明応四年(1495年)、北条早雲公によって伽藍の一寺が創建され、「不動院」を改め曹洞宗の禅寺とし、虚堂玄白禅師を迎えて開山とした。
天正四年(1576年)四世住職の代に伽藍は焼失するが、玉縄城主北条綱成・氏繁公父子によって伽藍が復興された。 更に紀伊大納言徳川光貞卿の信仰篤く、六世住職の代に七堂伽藍が完成された。 この姿が「相中留恩記略」巻之十八に記載されている。
なお天正十九年(1591年)十一月、家康公から三十石の朱印地を賜った事実がある。 安政二年(1855年)二月二十六日、二十二世住職の代に再び火災にあい、大伽藍はことごとく焼失した。焼失を免れ現存する総門(山門)は江戸中期に水戸光圀公が建立したと伝えられる。
昭和五十一年(1976年)春伽藍復興に着手、二十年余を経て平成十年(1998年)七堂伽藍を室町時代の様式に統一して復興した


水戸光圀公建立の天嶽院山門、 江戸中期の建物で唯一火災を免れた。山門前には仁王様が破邪の睨みをきかせている。


苔と新緑 心が和む


中雀門


鐘楼


六地蔵前で集合写真


温顔和楽
温顔とは穏やかで柔らかい顔つき、「和楽」という言葉は、和の心と楽しい気持ちを表しています。
和は日本独特の美しい文化や伝統を指し、楽は心地よさや幸せな感情を表します。
つまり、和楽とは、日本の伝統文化や美しい風景に触れることで心が癒され、幸せな気持ちになることを指します。

リーダーコメント
暑い一日でしたが、時折り涼しい風が吹き、楽しい寺社巡りでした。中嶋要一

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