2024.07.13【一夜城 石垣山】報告: 佐々木 保 | 東京ハイキング協会

2024.07.13【一夜城 石垣山】報告: 佐々木 保




石垣山 南曲輪の石垣 本来は「笠懸山」と呼ばれていたが、天正18年(1590)豊臣秀吉が戦国時代最大と言われる小田原城北条氏を水陸15万人の大軍を率いて包囲し、その本陣として総石垣の城を築いたことから「石垣山」と呼ばれるようになった。この城が一夜城と呼ばれるのは、秀吉が築城にあたり、山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を伐採し、それを見た小田原城中の将兵が驚き士気を失ったためと言われています。と小田原市の「石垣山一夜城」の説明がありました。
▼2024年7月13日(土)
▼天気:晴        ▼レベル: [3]
▼担当L: 佐々木 保
▼現地協力者:鈴木榮男、池田正義
▼参加者:27名(男:5名、女:22名)
▼歩程:3時間50分
▼入生田駅10時10分→石垣山(一夜城ヨロイヅカ)12時~40分→早川のビランジュ→早川駅14時

城の一部

北側の小田原城方面。当時と違い、今はビルの群に同化してよく見えない。海は相模湾

北方面は箱根の山々が連なる。


櫓台跡

二の丸跡

本丸跡

小高く盛られた地形が「本丸」。


石垣山 広がる海は相模湾。遠くの陸地は三浦半島。

山頂は広い台地状

北東は小田原方面

「旧城道東登口」。この道は城に繋がる大事な道のようです。

石垣山の東側に「ヨロイズカ」。食事ができます。中でもケーキセットは人気があるようです。

城で使われていた「石」のようです。

奥が石垣山。その東側(手前)は「ヨロイズカ」と駐車場と相模湾を見下ろせる休憩所 ❔

早川、小田原に下る道沿いに「小田原城攻めに参陣した武将の陣跡」の説明が。武将以外も参陣 ❔
  
千利休                          羽柴(豊臣)秀次
 
徳川家康                         宇喜多秀家
 
伊達政宗                         堀 秀政

「早川のビランジュ」入口。 奥の高架道路は箱根ターンパイク。左側は海方面

さらに上ってゆく

「国指定  早川のビランジュ」
ビランジュは別名ゴイノキ・ハダカノキ・バクチノキ等とよばれているバラ科の木です。バクチノキは樹皮がはがれると下から鮮やかな紅黄色の樹皮が現れる。その様子を博打で負けて身ぐるみはがされて丸裸になった姿にたとえて名がついたといわれている、とある資料(参加者提供)に書いてありました。


▼軌跡:約10km
▼リーダーコメント
梅雨明け前の安定しない天気の中、降雨は夕方からの予報で実施した。箱根登山鉄道「入生田駅」を下車したころには陽が当り蒸し暑い。石垣山以外は舗装道路歩き。上に行くほどに当る風が心地よい。石垣山で実際に戦いがあったのではなく、戦国時代最大と言われる小田原城を約15万の将兵を集めて、「北条氏と真田氏の間での領土紛争を豊臣秀吉が仲裁したが、北条氏が履行を覆した」こと等意に従わない北条氏を攻めるための「総合指揮所」のようです。水軍で海上も封鎖した戦いです。
遠路、暑い中参加いただきましてありがとうございました。お陰様で無事に終えることができました。
現地協力者や参加者に感謝です。ありがとうございました。
佐々木 保

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