2024.07.28【山崎天神~村岡城址】報告 中嶋要一
ながい階段を上ると、北野神社(山崎天神)です。リュックを下に置いて上る。
2024年7月28日(日) 天気:晴れ レベル[2]一般向弱
◇担 当 L :中嶋要一
◇参 加 L :松木千恵子
◇現地協力者:桜井敏子、
◇協 力 者 :鈴木榮男(投稿)
◇参 加 者 :13名(女性:9名、男性:4名)
◇所要時間 :3時間5分(休憩等含む)
◇歩行距離 :5.6km
<コース>
JR大船駅=湘南モノレール富士見町駅10:19→11:00山崎天神11:18→江のし満石標
11;27→洲崎古戦場跡碑11:48→12:05天満宮(昼食)12:50→12;52泉水院12:55
→13:24十二天公園前バス停=大船駅
<山崎天神>(北野神社)
北野神社は、山崎天神とも呼ばれ、暦応年間(1338-1341)、夢窓疎石が京都の北野天満宮を勧請したものと伝えられ、鎮座する山は「天神山」と呼ばれている。 その後、1362年(貞治元年)、円覚寺塔頭黄梅院主によって再建され、村の鎮守となった。 江戸時代には「洲崎神社」とも呼ばれていたという。(洲崎は現在の寺分・梶原・山崎・上町屋の古称。) 祭神、菅原道真、素戔嗚命
<江のし満石標>
左側には文化八辛未(かのとひつじ)年五月(1811年)、右には従是(これより)江のし満との銘が彫られていました。
<洲崎古戦場跡碑>
<碑文>
此の辺り古の州崎郷に属す 元弘三年(1333)五月新田義貞鎌倉攻の折 その武将堀口三郎貞満・大島讃岐守守之州崎口より攻む 鎌倉方は赤崎相模守守時を将として邀撃(ようげき:迎撃)し 戦闘六十数度 遂(つい)に敗れ守時以下九十余人自刃したる古戦場なり
<説明>
この辺りは、昔は州崎と言う地名でした。1333年5月に、新田義貞が鎌倉を攻め落そうと、武将の堀口貞満(さだみつ)と大島守之が州崎口より攻め込んできました。一方鎌倉方は、赤崎守時を武将として迎え撃ちましたが、60回以上の合戦のすえ、ついに鎌倉側は敗れました。この時、守時はじめ90人以上が自殺したといいます。この辺りは、その戦場の跡であります。
<泣塔について>
市指定有形文化財「石造宝篋印塔(文和五年銘)」(通称泣塔)が建つ丘は、深沢地域整備事業用地にあります。今年度(令和6年度)から深沢地域整備事業(土地区画整理事業による工事)の準備工事のため、整備が完了するまではご見学いただけませんので、ご了承ください。との看板がありました。
<天満宮>(上町屋天満宮)
天満宮は、鎌倉市上町屋に鎮座する神社です。通称として「上町屋天満宮」と言われることが多い。
天慶年間(938年~947年)上総介平良文が霊夢を受けて天神をこの地の鎮護として祀ったのがはじまりと伝わる。天明元年(1781年)に本殿が再建され現在も使われている。明治6年(1873年)村社に列格される。泉光院が別当寺であった。現在の本殿は1840年(天保11年)に建てられたものである。
文化財 庚申塔(寛文十年銘)(鎌倉市指定有形文化財 昭和40年3月30日指定)
泉光院は、鎌倉市上町屋に鎮座する真言宗大覚寺派のお寺です。創建は江戸時代初期
青蓮寺(高野山真言宗)の末寺であったが、現在は真言宗大覚寺派に属している。
地蔵堂の石地蔵は、「いぼとり地蔵」とも呼ばれ、石を奉じてお祈りをすると、「いぼが取れる」とか「子供が元気に育つ」といわれている。 また、薬師堂の薬師如来は、眼病平癒の信仰をあつめ、「町屋薬師」とも呼ばれている。
※真言宗は、歴史や教えの発展を経て、いくつかの宗派に分かれています。主要な宗派として、真言宗御室派、真言宗醍醐派、真言宗豊山派、真言宗大覚寺派等があり、それぞれに独自の特徴や教えが存在します。
十二天公園前バス停。道路の両側にはサルスベリが植えられていた。ここで解散
<リーダーコメント>
熱中症の心配があったので、村岡城址公園はパスし予定を変更して、バスで大船駅に向かいました。
暑い中、ご参加頂きありがとうございました。中嶋要一