2024.08.24【千代ケ崎砲台跡】報告: 佐々木 保 | 東京ハイキング協会

2024.08.24【千代ケ崎砲台跡】報告: 佐々木 保




千代ケ崎砲台跡「塁道」:砲台内の各砲座や施設間を連絡する交通路。

2024.08.24【千代ケ崎砲台跡】報告: 佐々木 保
▼2024年8月24日(土)
▼天気:晴    ▼レベル: ②
▼担当L: 佐々木 保
▼現地協力者:屋代 茂(行程記録)
▼参加者:16名(男:6名、女:10名)
▼歩程:4時間15分(休憩,ガイド説明時間含む)
浦賀駅10:06→東叶神社10:30~50→渡し舟(定員11名、2回に分乗)11:05~11:10→西叶神社→陸軍桟橋(昼食)11:30~11:55→燈明堂12:20~30→千代ケ崎砲台跡(ガイド説明あり)12:50~14:00→燈明堂入口バス停(解散)14:15
  
山行の出発点 京急浦賀駅       駅前に広がる「浦賀ドッグ」

東叶神社、勝海舟が威臨丸の太平洋横断前に、水垢離をしたと伝えられる井戸がある。

「浦賀の渡し舟」浦賀に奉行所が置かれた間もない享保10年(1725)頃から記録に登場する。

海で隔てられた東西浦賀の人々が行き来するための生活路として約300年の歴史がある。この航路は「浦賀海道」と名付けられ全国でも珍しい水上の市道(2073号線)になっています。

「西叶神社」源氏の再興を祈願して勧進したもので、平家が滅亡し願いが叶ったことで「叶明神」の称号が与えられたとあります。
 
「浦賀港引揚記念の碑」と「船番所跡」。


渡し舟場から少し歩くと陸軍桟橋と呼ばれる桟橋がある。太平洋戦争終了後南方や中国大陸から引揚者約560万人が、懐かしい日本の地に第一歩を記した地と書かれていた。

「燈明堂」浦賀港の西にあり、出入りする船にとって灯台の役目をしていた。菜種油で灯され光は海上4海里(7.4km)を照らしたといわれている。明治5年(1872)に廃止まで約220年間航路の安全を守った。


「燈明堂」の先は岩が広がり家族連れが楽しんでいた、遠方は房総半島。広がる海は浦賀水道。

千代ケ崎砲台 砲台内の各施設を連絡する交通路

交通路と左右に各施設

ボランティアの分かりやすい説明に聞きいる。明治14年から17年にかけて建設された東京湾要塞を構成する砲台の一つで終戦まで横須賀軍港の防空を担った。

3つの砲座の一つ。丸い穴1ヶ所に、28ミリ榴弾砲が1機置かれていた。
弾薬庫の天井。砲弾はこの天井の穴から引き揚げられ砲座へ運ばれた。

砲台の「土塁」に立つと房総半島と浦賀水道。この水道を進む敵の艦船を狙うための砲台。


模型 設置されていた「28ミリ榴弾砲」


猛暑に疲れた。バス停で早めに解散 帰路に着いた。。

千代ケ崎砲台 パンフレット

浦賀駅を歩こう パンフレット

▲本日の軌跡 距離:7.4km
▲リーダーコメント:
曇り空、涼やかな海風も出発するまで後はカンカン照りの中を歩く。少人数のため傘の使用をすすめた。
開港の地である浦賀の立ち寄ったどの施設も、歴史を物語る遺物で特に「陸軍桟橋」が56万人の引揚者が最初の一歩を踏んだ地とは知りませんでした。さらに幕末の頃に「浦賀奉行所」跡があることも。
さらに、東京湾に32ヶ所も要塞を構成する砲台があることも知りませんでした。
千代ケ崎砲台のガイドの皆さん、猛暑の中のご説明ありがとうございました。勉強になりました。
佐々木 保

 

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