2011.08.06 【神宮外苑~代々木】報告
神宮外苑~代々木
実施日:平成23年8月6日(土)天気晴曇
リーダー:佐野俊一郎 (ツイッターはじめました shun_sano)
協力者:青山昌次・平山亨・佐々木純子
参加リーダー:大手和夫・寿L飯塚賢次
参加者:26名・男性10名・女性16名
コース:JR千駄ヶ谷駅→東京都体育館→鳩森八幡神社(富士塚)→観音坂→観音橋→外苑西通→聖徳記念絵画館→いちょう並木→青山霊園→根津美術館→岡本太郎記念館→骨董通り→表参道→原宿駅→明治神宮→代々木公園11時30分解散約 6キロ
境内のお稲荷さん 富士塚登山8:12
千駄ヶ谷の富士塚(指定:昭和56年3月12日)
寛政元年(1789)の築造と言われ、円墳形に土を盛り上げ、富士山の溶岩は頂上近くのみ配されています。頂上に至る登山道は自然岩を用いた階段となっており、山腹にはクマザサも植えられています。山裾の御影石の里宮(浅間社)をはじめ、7合目には身祿様が安置されている洞窟、烏帽子岩、釈迦の割れ石、山頂にボク石で覆われている奥宮等富士山を再現しています。また富士塚の前にある池にみたてた場所には毎年開山式(6月3日)の頃菖蒲が咲き、訪れる人の目を楽しませています。
鳩森八幡神社縁起、御祭神応神天皇・神功皇后
『江戸名所図会』によると大昔、此の地の林の中にはめでたいことが起こる前兆の瑞雲(ずいうん)がたびたび現れ、ある日青空より白雲が降りてきたので不思議に思った村人が林の中に入っていくと、突然白鳩が数多、西に向かって飛び去った。この霊瑞(れいずい)に依り 神様が宿る小さな祠(ほこら)を営み鳩森『はとのもり』と名付けた。貞観2年(860年)、慈覚大師(円仁)が関東巡錫の途中、鳩森のご神体を求める村民の強い願いにより、山城国石清水(男山ともいう)八幡宮に宇佐八幡宮を遷座し給うた故事にのっとり、神功皇后・応神天皇の御尊像を作り添えて、正八幡宮とし尊敬し奉ったと伝えられた。
観音坂かつて「渋谷が原」と呼ばれたこの地には、古くから観音堂が建ち、奈良長谷寺の観音さまと同じ木片で造られたという、小さな観音さまが祀られ、人々に親しまれていました。
聖徳記念絵画館明治神宮外苑は、明治天皇とその皇后、昭憲皇太后のご遺徳を永く後世に伝えるために、全国国民からの寄付金と献木、青年団による勤労奉仕により、聖徳記念絵画館を中心に、体力の向上や心身の鍛錬の場、また文化芸術の普及の拠点として、憲法記念館(現明治記念館)などの記念建造物と、陸上競技場(現国立競技場)・神宮球場・相撲場などのスポーツ施設が旧青山練兵場跡に造成され、大正15年(1926)10月に明治神宮に奉献されました。創建から終戦までは、国の施設として管理され、その間の昭和6年には、水泳場(神宮プール)が開場しました。戦後は宗教法人明治神宮の外苑として国の管理をはなれ独自の事業収入により諸施設の管理運営を行い現在に至っております。
時代の移り変わりと共に世の中のスポーツ観は、選手の強化育成や競技会での記録重視の観るスポーツから国民ひとりひとりが健康増進や趣味として楽しむスポーツへと大きく変貌して来ました。外苑もその時々の要望に答え、軟式球場・テニスコート・ゴルフ練習場・アイススケート場・打撃練習場(バッティングドーム)・フットサルコートなど次々と時代の先端の施設を作り、改修も重ねて、活発で楽しい場所を提供し、早朝から夜遅くまで、広く皆様に利用いただき、喜ばれ親しまれております。
また、文化面では、日本文化の普及の一助として茶道・華道・書道・陶芸の教室を広く一般に向け開講しております。
お鷹の松大正7年(1918)明治神宮外苑競技場(現・国立霞ヶ丘競技場)造成のために買上げた霞岳町の敷地内に境妙寺という古寺があった。昔、徳川三代将軍家光(1603~1651)が鷹狩の途中この寺に休息していたところ、江戸城から飛び去っていた「遊女(ゆうじょ)」と名づけた愛鷹が飛んで来て、庭前の松の枝に止まったので家光は大へん喜び、この松をその鷹の名をとって「遊女の松」と名づけたと伝えられる。後の世の人々が「お鷹の松」或は地名をとって「霞の松」とも呼んだ。碑文にもある二代目の松(樹齢推定20年高さ4m)は昭和39年、東京オリンピック開催のための拡張工事の際に取り去られ、碑石は競技場代々木門内に移設されていたが、このたび現在地に移し、新たにこれに黒松を配したものである。
これ読めます青山墓地8:55~9:10休憩 青山霊園、緑豊か・約12万人が眠る・桜の名所としても知られる名門都営霊園、都心の一等地青山に約26ヘクタールという広大な敷地を持つ青山霊園は、1926年(大正15年)、斎場の建物全てが東京市に寄附され、日本で初めての公営墓地となりました。園内中央にある約1.7キロの桜並木は桜の名所でもあり、花見の季節には大勢の見物客が訪れます。各界著名人のお墓があることでも知られています。尾崎紅葉、斉藤茂吉、精神科医上野英三郞農業土木学者(忠犬ハチ公の飼い主)池田 勇人(首相). 犬養 毅(首相). 植木 枝盛(思想家) 広瀬武夫海軍中佐..等々
根津美術館の塀 根津美術館は、東武鉄道の社長などを務めた実業家・初代根津嘉一郎(1860~1940)が蒐集した日本・東洋の古美術品コレクションを保存し、展示するためにつくられた美術館です。山梨県に生まれた初代嘉一郎は、若い頃から古美術品に関心を寄せていたようです。明治29年(1896)東京に本拠を移すと、実業家、政治家として腕を振るい、また教育界にもその活躍の場を広げるかたわら、茶の湯にいそしむようになると、美術品の蒐集にはさらに拍車がかかりました。その蒐集ぶりは豪快を極めたと語り草になっています。そして、それらのコレクションを単に秘蔵するのではなく、「衆と共に楽しむ」ことが初代嘉一郎の願いでした。その遺志を継いだ二代根津嘉一郎が、昭和15年(1940)に財団を創立、翌年根津美術館が開館しました。昭和20年、戦災で展示室や茶室などその大部分を焼失しましたが、昭和29年に美術館本館を再建、昭和39年には増築を行い、平成3年(1991)には創立50周年記念事業としてさらに増改築を行いました。そして、現館長・根津公一のもと、平成18年より3年半をかけたこのたびの新創工事は、以前の新館を建物免震の収蔵庫に改築することからはじまり、3つの倉庫と旧本館を取り壊して、新たな展示館(本館)を建設するなど大規模なものとなりました。昭和15年の財団設立当時、4,643点でスタートした当館の所蔵品の数は、平成21年3月末の時点で、6,874件を数えるにいたっています。これらのうちには、国宝7件、重要文化財87件、重要美術品96件がふくまれています。
コレクションの大部分は、初代根津嘉一郎の旺盛な蒐集の成果です。蒐集の対象は、日本・東洋古美術の広いジャンルにわたり、当館コレクションの幅の広さにつながっています。また晩年、自ら青山と号して茶の湯をたのしむなかで集めた茶の道具の数々も、コレクションの重要な柱となっています。初代嘉一郎没後に購入された作品、さらに、篤志家から寄贈された作品もあります。ことに作品寄贈の多さは日本の私立美術館としては珍しく、当館に対する信頼の高さを示しているといえます。購入品や寄贈品は、コレクションにさらなる魅力を加えています。
代々木公園11:00 代々木公園は、23区内の都市公園の中で五番目に広く、道路を挟んで森林公園としてのA地区と、それとは対象的な陸上競技場、野外ステージなどを備えたB地区とに分かれています。かつて陸軍代々木練兵場だったこの場所も、戦後は米軍の宿舎敷地・ワシントンハイツとなり、東京オリンピックの選手村を経て公園となりました。開園当時はまだ若かった木々も、今ではすっかり成長し、隣接する明治神宮の木々と共に緑濃い森を作っています。 また平成2年5月には、高さ15m~30mに及ぶ大小3基の噴水や水回廊をもつ水景施設が完成、“水と緑”に恵まれた公園として生まれかわりました。
真夏の街歩きです、緑陰を求め涼しいうちに、健康ウォークを計画しました。台風9号が沖縄に接近、不安定な気象の中で蒸し暑い日でした。9時過ぎでも、西北西に伸びる骨董通りは、日光の遮蔽物は有りません。逃れて歩いても、所詮到着場所には直射日光下を同じ距離は歩く羽目になりました。
2011/8/10 水曜日 at 15:59
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