2012.05.27 【金沢八景】報告 | 東京ハイキング協会

2012.05.27 【金沢八景】報告



金沢八景リンクをクリック
平成24年5月27日(日)金沢八景
リーダー:平山亨
協力L:佐野俊一郎・中嶋要一
協力者:佐々木純子
参加者:51名 男性11名 女性40名
京浜急行金沢八景駅10時集合(京浜急行品川駅9:06発快速急行三崎口行乗車=金沢八景駅9:46着→瀬戸神社10:10→琵琶島神社10:22→六浦川→金沢八景公園→平潟橋(侍従川)→野島公園→平潟湾(夕照橋)10:38→稲荷神社10:53→野島公園(展望台)11:05~11:21→伊藤博文記念館前昼食11:30~12:20→野島橋12:22→金沢漁港→海の公園(人口砂浜)12:35→生物観察地区→金沢八景大橋→八景島(シーパラダイス)12:57→丘の広場13:08→園内自由散策13:19~14:15→八景島大橋→芝生広場→称名寺前通り→セブンイレブン左折→赤門通り→君ケ崎→谷津公園15:18→京浜急行金沢文庫駅15:30


京急金沢八景駅9:39


京急金沢八景駅前参加者受付9:55


瀬戸神社10:10
瀬戸神社古はるか大昔、今日の泥亀町から釜利谷東一帯は大きな入江でした。この入江と平潟湾とは、今日の瀬戸橋の位置にあたる狭い水路状の海峡でつながっていました。そしてこの小さな海峡は、潮の干満の度に内海の海水が渦を巻いて出入りする「せと」でした。古代の人は水流の険しい「せと」を罪穢れを流し去ってしまう神聖なところであるとして、豊な幸をもたらしてくれる神々をここに祭りました。これが瀬戸神社の起源です。神社の隣接地からはすでに古墳時代には祭りが行われていたことを証する祭祀遺物が出土しています。瀬戸神社の御祭神が「飛び石」(金龍院という近くのお寺にこの石が残っています。)という岩に乗って出現されたという伝承も、こうした古代の人以来の語り伝えでありましょう。
鎌倉時代、幕府を開いた源頼朝は、伊豆での挙兵にあたって御利益を蒙った伊豆三島明神(三島大社)の分霊をこの「せと」の聖地に祭り、篤く信仰しました。社殿の造営もおこなわれ、今日のような神社の景観ができ上がったのは概ねこの頃のことです。
以後、金沢(六浦)の地は港町として発展し、鎌倉と関東一円を東京湾や利根川を水系利用して結ぶ水上物流の集散地となりましたから、執権北条氏、ことに金沢に居を構えた金沢北条氏、また足利氏や小田原北条氏の崇敬も篤いものがありました。ことに江戸時代には徳川家康は社領百石を寄進しています。そして武家のみならず、名勝金沢八景の中心の神社として江戸の町民にまで広く崇敬者はひろがり、文人墨客も多く当社を訪れました。明治四十年郷社に列格、戦後は宗教法人となり神奈川県神社庁献幣使参向指定神社となっています。
祭神  主神の大山祇命は伊予国(愛媛県)大三島の大山祇神社、伊豆国(静岡県)三島大社の祭神と同神で、港の神、海上渡航の神、交易の神として古来より信仰され、交通安全・旅行安全・商売繁盛の守護神として知られています。
また同時に、そのお名前の通り山の神であり、森林そして水源地を司られることにより人間の生命に直結するお働きを顕しておられることはもちろん、金属・岩石・木材・鳥獣・草花などの建築資源・生活資源の多くはこの大神の恩恵によるものです。
また、天孫瓊瓊杵尊の后神となられた木花咲耶姫の御父神であり、皇室の外戚として国土の経営にも御功績を現わされています。

瀬戸神社境内に移動して朝の挨拶


琵琶神社鳥居
琵琶島神社平潟湾に突き出した小さな神社。源頼朝の妻・北条政子が琵琶湖の竹生島[ちくぶじま]弁財天を勧請したといわれ、江戸時代にはご神体が立像だったことと、政子の出世にあやかって立身出世の神様として信仰を集めた。境内の入口には、この石の前で物を拾うと福を授かるといわれる福石がある。また、横浜金沢七福神の一つで弁財天を祀っている。


琵琶神社10:22


海に突き出た琵琶神社境内


平潟湾10:30


シーサイドラインの橋脚下
横浜新都市交通シーサイドライン新杉田=金沢八景を結ぶ


六浦川八景橋


刷毛ような花


侍従川平潟橋


夕照橋
夕照橋 金沢八景のひとつ「野島夕照(のじまのせきしょう)」から名付けられたこれは野島に掛かる橋のひとつです。正面に「夕照橋」本来の読み方は「せきしょうばし」なのだそうですが現在は「ゆうしょうばし」と呼んでいます


野島稲荷神社10:53
稲荷神社 祭神:倉稲魂命合祀神:天照皇大神、菅原道真公、市杵島姫命、誉田別命、天児屋根命、須佐之男命金沢八景の一つ野島の夕照で知られる野島山南側山裾に鎮座する稲荷神社(正一位稲荷大明神)は豊川稲荷、笠間稲荷、伏見稲荷、の日本三大稲荷の中の京都伏見稲荷の系統です。この神社は野島町の総鎮守で倉稲魂命(ウガノミタマノミコト)をおまつりしています。野島神社は安貞元年1227年今から約770年の昔、鎌倉時代に阿波守長島維忠の発願によりその子修理佐頼勝が造立したものと伝えられています。また、土地の古老によれば万治年間(1658~1660年)野島浦の南端に紀州大納言徳川頼宣公の別邸があり、これを塩風呂御殿と称したということです。稲荷神社はちょうど塩風呂御殿の東北の方向にあり、そのため鬼門の守り神として朝宣公の厚い尊信を受け社殿造営にも力を尽くしたということです。~境内の能書より~


野島稲荷神社


野島稲荷神社境内


野島稲荷神社左から野島公園展望台への石段


縄文時代の貝塚有る野島公園


11:05~11:21展望台
野島公園(展望台)展望台からの360°大パノラマは必見!平潟湾に浮かぶ小さな島の公園で、歌川広重が描いた「野島の夕照」で知られています。中央にある野島山の頂上には展望台があり、晴れた日には遠く房総半島や富士山など360度の景色が広がります。


展望台から八景島シーパラダイス


展望台から海の公園人口砂浜


展望台から日産自動車追浜工場


展望台から日産自動車追浜テストコース

野島公園の旧伊藤博文公金沢別邸は、明治31年(1898)年に伊藤博文公(天保12年「1841」~明治42年「1909」により建築された茅葺屋根の田舎家風意匠をもつ海浜別荘建築です。本邸は明治22年(1889)2月11日の大日本帝国憲法(明治憲法)発布後の建築です。伊藤公が井上毅(こわし)等と明治憲法の起草作業を行った場所は、金沢洲崎の割烹旅館「東屋」、夏島別荘(現横須賀市夏島。明治20年から同22年まで夏島に建っていた伊藤公の別荘)とされており、本邸と明治憲法起草とは直接的な関連はありません。しかし、伊藤公は赤坂仮皇居御会食所(明治憲法草案審議会場)下賜に際して金沢別邸への移築を検討していることなどからも、伊藤公にとって野島は憲法起草ゆかりの地として特別の意味をもつ場所であったことが伺えます。


旧伊藤博文金沢別邸牡丹園


藤博文金沢別邸玄関


旧伊藤博文金沢別邸海側から


旧伊藤博文金沢別邸のある園地で昼食11:30~12:20
昼食中に希望者は旧伊藤博文金沢別邸見学


シーサイドライン野島公園駅12:22


海の公園12:35
海の公園 横浜の市内で唯一海水浴ができ、春先には潮干狩りが楽しめる、美しい人工の砂浜です。金沢地先埋立事業の一環として整備されたもので、今は自然に見える砂浜も、実は千葉県から運んだ砂で人工的に造られたものです。青い海に鮮やかに映える豊かな緑、カニやアサリなどの小さな生き物たちが息づく広い砂浜…。小さなお子様連れでも安心してのびのびと水に親しみ、砂遊びをしたり、自然と心ゆくまでふれあうことができます。横浜・海の公園は、海水浴や潮干狩りだけでなく一年中楽しめる公園です。


海の公園砂浜とシーパラダイス


浜風が涼しい


対岸の野島公園


先はシーパラダイス
八景島は横浜市が管理する公園のため、入島は無料である。 一方で、シーパラダイスを運営する株式会社横浜八景島は西武グループの企業であるため施設への入館やアトラクション利用時には料金が必要


金沢八景大橋


シーパラダイス内12:57

 
バラ園                                                                                 バラ園


八景島幸福の鐘13:08


園内フリータイム13:19~14:15


フリータイム終了、14:26


シーサイドライン八景島駅5名帰る


帰り海の公園内


日陰で信号待ち


谷津公園解散16:30

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