2013.03.03 【小田原西部丘陵】報告
小田原西部丘陵
平成25年3月3日(日)天気晴から曇り 桃の節句ひな祭り
リーダー:平山亨
協力L:佐野俊一郎
協力者:佐々木純子
参加者:34名 男性6名 女性28名
小田急新宿駅7:41発急行小田原行乗車=小田原駅9:15着
コース:小田原駅9:27→高長寺9:41~9:45→大稲荷神社9:46~9:50→小田原城外郭土塁跡9:55→めだかの学校10:03~10:06→市方神社10:12→小田原厚木道路下→みかん畑休憩10:27~10:42→水之尾毘沙門天11:08~11:12→辻村植物公園→いこいの森昼食11:40~12:20→子どもの森公園わんぱくランド12:38→東泉院13:15→北条幻庵屋敷跡13:20→小田急足柄駅14:00
朝の挨拶とコース説明今日は梅の里と歴史の道を歩きます9:27
小田原駅西口のロータリー内に建つ北條早雲公像
北條早雲公(伊勢新九郎長氏のち宗瑞、早雲庵。法名・早雲寺殿天岳瑞公)は、戦国時代に相模、武蔵、上総、下総、安房、常陸、上野、下野の関八州のほか伊勢、駿河に勢威を及ぼした北條五代の祖です。『北條記』によれば、明応4(1495)年伊豆韮山から箱根を越えて小田原に進出した時、牛の角にたいまつを結んで大軍の夜襲に見せかけた、いわゆる「火牛の計」の戦法を用いて大森氏を打ち破ったといわれています。その後小田原は96年間にわたり北條氏の城下町として繁栄し、東国一の都市に発展しました。(北條早雲像建立期成会の現地説明板より一部抜粋)
北條早雲公の銅像の左を歩道のない道路を自動車に注意して横断、直進して細い道に入る、大稲荷神社の南に福泉寺が建つ。曹洞宗の寺院、山号は華岳山。小田原七福神の一つである満願弁財天堂は、境内の入口付近に離れて建っている。門前を右折、大稲荷神社前を通り越し高長寺さんに参詣
紅梅 桜
高長寺(こうちょうじ)
大稲荷神社のすぐ北に高長寺がある。曹洞宗の寺院、山号は栖龍山。山門前の佇まいも良い。山門の右に立派な地蔵堂が建っている。明治期に高源院と長吉寺が合併、一字づつ取って高長寺となった。本堂横のハナモクレンは市天然記念物です。また裏手の墓地には近代浪漫主義文学の先駆者。北村透谷の墓がある。
拝殿 見事な神殿は横から
大稲荷神社(だいいなりじんじゃ)
大稲荷神社の由来伝記によれば、小田原北条時代に修験者が旧竹ノ花地区に修験堂を建立した。その後武田家の臣曲渕氏が主家滅亡後徳川家に隋身、この地を采地として賜り修験堂に稲荷大明神をおまつりしたことに始まり、その後天正十八年(1590年)初代大久保忠世公小田原城主しなり京都伏見稲荷大社の最北座田中大神を合祀し信仰ことに篤かったが、子忠隣の時に幕府の忌諱に触れ、改易国替えとなり、それ以来永年に亘り祭祀するものも無く荒廃にまかせた。貞享三年(1686)忠朝公小田原に帰藩が許され、その子忠増公の時に家臣清水氏の息女と、側近の内芝氏に御神託があり、そのお告げに従い小田原城の鬼門除稲荷として再興したため、忠増公には老中執政職に昇進した。その御神徳の崇高広大にして、そのあらたかさに恐懼感激し、宝永三年五月(1706年)に現在地の谷津山に御社殿を造営せられ、現在まで関東大震災にも倒れず、平成18年(2006年)で御社殿遷宮以来三百年になる。
小田原城外郭土塁跡9:55 民家の畑に香る蝋梅
小田原 城外郭土塁跡(おだわらじょうがいかくどるいあと)小田原城は、城下全体と周辺丘陵や海岸線を9キロに及ぶ土塁と空堀で城の内に取り込みました。
民家の庭先から国道74号小田原税務署信号横断荻窪用水に沿て上がると、めだかの学校の水車がある10:03~10:06 405
めだかの学校歌詞
童謡「めだかの学校」は、童話作家の茶木滋さんが作詞されました。NHKより依頼を受けた茶木さんは、終戦当時の荻窪用水のこの周辺で、息子の義夫さんと買い出しの途中で交わした会話を基にしてこの詞を作られたそうです。荻窪用水とは、江戸時代に川口広蔵という人が約20年かけて早川から荻窪に水を引き込んだ用水路のことです。駒形水車(こまがたすいしゃ)は小田原丘陵ウォーキングマップでは、荻窪用水のもっと上流になっている。今では、小田原市内の水車はこの1軒のみとなり、貴重な設備です。この水車では、米つきを2昼夜かけて行っていました。昔は製粉や製材の仕事をする水車もあったそうです。
今日は市方神社にコースを取るので、めだかの学校のすぐ先を右に渡る。
市方神社門10:12 市方神社拝殿
一般には、ほとんど知られていないが、江戸時代末期に編纂された『新編相模国風土記稿』にも、「市方権現社」として載っている由緒ある神社。
市方神社の石碑群
市方神社にはたくさんの石像記念物があります、左手の「川口廣蔵翁頌徳碑」は、昭和三十二年に荻窪用水開発の功労者をほめたたえるために建てられました。裏面には川口廣蔵による救済事業であったという由緒が刻まれています。この碑の隣にある「荻窪灌漑溝復興碑」は昭和三年に現小田原税務署向かいの荻窪川北岸に建てられ、道路改修あたってこの地に移したものです。碑の裏面には、小田原藩主大久保侯が開いた用水路が、関東大震災(1923年)で破壊され、その復興を達成した経緯が記されています。右手には、念仏供養塔(1785年)や馬頭観音(1801年)、石橋供養塔(1853年)、唯念名号塔(1854年)、六地蔵他があります。馬頭観音は七基集まっていますが、とても美しい石像が刻まれていますし、他にも興味深い記念物が残されています。(小田原教育委員会)
市方神社を出て右人家の間を登っていく 道路改修で竹林に追いやられた石塔
トンネルの坂を登って行くとみかん畑休憩10:27~10:42
荻窪用水
桜田隧道出口付(近所在地)小田原市水之尾151(海抜101m)桜田隧道 開通当時は、もっとも長いトンネルで340mあります。出入り口だけはコンクリートで固められていますが、内部は当時の素掘りの地肌が残っています、入口の方に三ヶ所の掘りそこなった枝分かれトンネルが有り、当時の苦労を物語っています。
板橋用水 荻窪用水の中で最も大きな分水です。桜田隧道出口より約3mの所で分水し、堤新田、かりまたずいどう、大窪小学校裏を通っています。板橋分の水田約5ヘクタールを潤していました。
荻窪川への合流 ここから200mほど下流の森の中で、滝になって落ち、荻窪川に合流します。開発時の計画では、久野までの水路を開くことになっていましたが、ここで切れてしまいました。荻窪地内で、煙硝蔵堰、野村屋敷堰等に分水し、45ヘクタールほどの水田を潤し、飲料水にもなっていました。(小田原市教育委員会)
水之尾毘沙門天拝殿11:08~11:12
水之尾毘沙門天(みずのおびしゃもんてん)
ここ風祭水之尾は俗に石切場と言われ、昔から小田原石の産地として知られていた。伝承によれば、小田原北条の頃、小田原城修築のため城石の切り出し中に、突然巨石の間から血が流れ出た。そしてその夜毘沙門天が枕辺に立ち、「我が身を傷つけるな、しからばお前を守護してやろう」といった。そこで切り出しを中止し、この自然石を本尊として、毘沙門天を祀ったという。江戸時代になって、この話しを聞いた小田原城主が、毘沙門天堂を創建したという。
午後の出発
辻村植物公園(つじむらしょくぶつこうえん)
前身は、辻村常助氏と伊助氏が創立した農園ですが、自然景観と貴重な植物を守るべく公園として整備されました。 散策を楽しみながら、国内外の珍しい植物群を見ることができます。初春には、約600本の梅が咲き誇り、甘酸っぱい梅の香りが漂います。初夏にはユリノキやユーカリの花も見ることができます。
平和の碑 戦争を知らない人が68歳だ
東泉院に参詣のおりには下の石碑も御覧ください
東泉院の石碑 中川宗淵老師句碑 細川石屋老師報恩碑
間中喜雄平和碑 【戦争の狂気。何のために死んだのか判らない人たちに捧ぐ】
『戦争の狂気が国々を侵すとき無数の無辜の人々がいたましくもその犠牲になって殺されてゆく』
間中喜雄 小田原、間中病院長、漢方研究家として世界的に貢献した。書画文筆の作品も多い。自身の制作である
。中川宗淵老師句碑「花の世の、花のようなる人ばかり」 龍沢寺僧堂師国際的な禅僧として有名、俳人としていられている。
川石屋老師報恩碑「慈悲」自筆刻
水沢正法寺僧堂師家二十二世住職の師
岸秀岳老師頌徳碑当山二十世住職禅の書画や詩作多く詩禅一如の境涯をたたえる。
中河与一の文学碑名作 天の夕顔で有名な作者。晩年当地で送る。「鹿を見失ひぬされど山を見たり」一寸木亀之助碑 大正十一年創草期の空軍飛行機事故犠牲者慰霊碑碑文の作と執筆は、秀岳和尚で名筆といわれている。
東泉院から民家と畑の間を通り北条幻庵屋敷跡
北条幻庵屋敷跡(ほうじょうげんあんやしきあと)
北条幻庵は早雲の子として生まれました。幼年時代に箱根権現の別当職を約束され、京都に出て三井寺で修学したり、学者や文化人について諸芸を学び、格調高い歌を詠む文化人でもありました。天文10 年(1541)に兄氏綱が逝去した後は、3 代氏康、4 代氏政の後見人として一族の長老的存在となりました。幻庵は北条氏が滅びる8ヶ月前に北条氏の盛衰とともに幻庵屋敷で97歳で亡くなったとされています。久野にある幻庵屋敷跡には、土塁や築山の跡があり、清水がわき出す泉に昔をしのぶことができます。