2013.03.29~31 【西国札所巡り1】報告
西国札所巡り1
平成25年3月29日(金)~31日(日)
リーダー:佐野俊一郎
協力L:平山亨
協力者:佐々木純子
参加者:21名 男性3名 女性18名
東京3月29日発=東名高速道路=豊田JC=伊勢湾岸自動車道=四日市JC=東名阪自動車道=亀山JC=伊勢自動車道=勢和多気JC=伊勢自動車道=伊勢大山JC=42号=海山=紀勢自動車道(無料)=尾鷲北=42号=那智3月30日朝着=熊野那智神社【西国33番札所1番青岸渡寺】=新宮市熊野速玉大社参詣=熊野本宮大社=田辺=和歌山市2番札所紀三井寺=紀の川沿い粉河寺泊 31日3番札所粉河寺=4番施福寺=5番藤井寺=東京
平成25年3月29日(金)
JR恵比寿駅20:56 新東名高速道路清水PA22:57
平成25年3月20日(土)
伊勢自動車道安濃2:25~40 JR那智駅5:53
補陀落山寺参詣6:30
補陀洛山寺
紀勢本線那智駅前面に広がる浜の宮海岸は、平安時代からおよそ千年に渡って南海の果てにあると信じられていた観音浄土を目指して渡海上人が、釘付けされた船の中に座り補陀落渡海に出発したところでもあります。(通常拝観時間8:30~16:00)那智駅から国道を渡ったところに補陀洛山寺があり、渡海上人達をおまつりしております。千手千眼、全知全能、広大無辺の偉大なる観音力を表し給う千手観音は、補陀洛山寺のご本尊です。(那智勝浦町)
熊野古道大門坂
古来より、多くの参詣者たちを受け入れてきた熊野古道。大門坂は、その面影をもっとも色濃く今に残している場所です。全長約500m、高低差約100mの苔むした石畳道と樹齢800年を超す老杉等に囲まれた古道では、夫婦杉、古の関所跡や霊場への入り口といわれた「振ヶ瀬橋(ふりがせばし)」などがつぎつぎと姿をみせます。(みんなで作るよりみちマップ)
夫婦杉から大門坂に足を踏み入れると、うっそうとしたスギ、ヒノキ、クスノキなど樹齢600年以上の木々の木漏れ日が苔むす石畳の上に落ち、その美しさに思わず息をのみます。その大門坂を進んでいくと、熊野参詣道中辺路にある最後の王子社、多富気王子(たふけおうじ)があります。 この多富気(たふけ)王子は、樹霊や峠の神仏に「手向け(たむけ)」をした場所でもあり、本宮の祓戸(はらいど)王子のように、那智山の霊所に入ることを確かめて身心を清める場所であったと考えられています。現在、那智大社一の鳥居の左に児宮(ちごのみや)としてお祀りしています。(みんなで作るよりみちマップ)
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那智の滝
熊野那智大社の別宮、飛瀧神社のご神体として古くから人々の畏敬を集めてきた那智の滝は、「一の滝」とも呼ばれ日本三大名滝の一つです。落差133m、銚子口の幅13m、滝壺の深さは10mの落差日本一の名瀑で、熊野の山塊、その奥方より流れ落ちる姿は圧巻で、大晦日にはライトアップも行われます。銚子口の岩盤に切れ目があって、三筋に分かれて流れ落ちるところから、「三筋の滝」ともよばれています。毎年7月9日と12月27日には、古来からの神事にのっとり、神社(飛瀧神社)の御神体としてこの滝を崇め、「御滝注連縄張替行事」が行われます。かつて、諸国から那智の滝に詣でる人々は、写経を経筒に入れ、お滝入口の大鳥居をくぐり左側にある「那智経塚」に、写経を納めました。(那智観光協会)
熊野那智大社青岸渡寺は石段を上るのが大変 那智山熊野権現鳥居
朱塗りの三重塔と大滝 帰りは古道をくだるこの道は熊野古道の難所大雲取につながる8:44
観光ポスターのアングル、ポスターは合成
第一番札所青岸渡寺
「補陀洛や岸打つ波は三熊野の那智のお山にひびく滝つ瀬」と御詠歌で親しまれている西国第一番の礼所であります。当山の縁起によるとその開基は仁徳帝の頃(4世紀)印度天竺の僧、裸形上人が那智大滝において修行を積みその暁に瀧壷で八寸の観音菩薩を感得し、ここに草庵を営んで安置したのが最初です。その後、200年推古天皇の頃、大和の生佛上人が来山し、前述の話を聞き一丈(3m)の如意輪観世音を彫み、裸形上人が感得した八寸の観音菩薩を胸佛に納め勅願所として正式に本堂が建立されたのです。平安朝中期から鎌倉時代は、「蟻の熊野詣」といわれ、熊野三山の信仰が盛んになり、この時、65代花山法皇が三年間山中に参籠され那智山を一番にして近畿各地の三十三観音様を巡拝されましたので、西国第一番礼所となりました。現在の本堂は、織田信長南征の兵火にかかり、天正18年(1590)豊臣秀吉によって再建され、桃山時代の建築をとどめ紀南で一番古い国指定の重要文化財建造物で、この堂の高さは18mで、大滝の落口の高さと同じであるといわれています。青岸渡寺尊勝院は、那智山開山の裸形上人像と如来像を安置。中世以降は天皇、皇族の熊野詣での宿泊所にあてられていました。不開門は同院の入り口にある唐破風の四脚門で有名。なお、大正7年に那智の滝参道口・沽池と呼ばれるところから発掘された、飛鳥・白鳳時代から鎌倉時代初期にかけての熊野信仰を知る貴重な那智経塚出土品のうち、白鳳、奈良時代の観音菩薩立像、また藤原時代後期の金剛界三昧耶形(曼荼羅を立体的に表現)が国指定重文になっています。境内からは那智の滝、那智原始林、太平洋の眺めもよく、鎌倉時代の重文・宝篋印塔(4.3m)や梵鐘があります。(那智山青岸渡寺)
熊野那智大社由緒
熊野那智大社社伝に「神武天皇が熊野灘から那智の海岸“にしきうら”に御上陸されたとき、那智の山に光が輝くのをみて、この大瀧をさぐり当てられ、神としておまつりになり、その御守護のもとは、八咫烏の導きによって無事大和へお入りになった」と記録されております。命の根源である水が豊富にあふれ落ちる「那智大瀧」を、この熊野に住む原住民の人々も神武天皇御東征以前からすでに神として奉祀されていたとも伝えられていますが、いずれにいたしましても古代からこの大瀧を「神」としてあがめ、そこに国づくりの神である「大巳貴命」(大国主命)をまつり、また、親神さまである「夫須美神」(伊弉冉尊)をおまつりしていたのであります。その社殿を、お瀧からほど近く、しかも見晴しのよい現在の社地にお移ししたのは仁徳天皇五年(317年)と伝えられています。
この時、大瀧を「別宮飛瀧大神」とし、新しい社殿には「夫須美大神」を中心に、国づくりに御縁の深い十二柱の神々をおまつりしました。やがて仏教が伝来し、役小角を始租とする修験道がおこり、古来の神々と仏とを併せてまつる、いわゆる神仏習合の信仰が行なわれるようになりました。その後、「蟻の熊野詣」といわれる程に全国から沢山の人々が熊野を目指すことになるのですが、中でも、皇室の尊崇厚く、延喜七年(907)十月、宇多上皇の御幸をはじめとして、後白河法皇は三十四回、後鳥羽上皇は二十九回もご参詣の旅を重ねられ、また花山法皇は千日(三年間)の瀧籠りをなされたと記録されております。なお「熊野」という地名は「隈の処」という語源から発しているといわれていますが、だとすれば、ここは奥深い処、神秘の漂う処ということになります。また「クマ」は「カミ」と同じ語で、「神の野」に通じる地名ということにもなります。その「神の里」に詣で、漂う霊気にひたり、神々梛の恵みを得ようとして、古代から多くの人々が熊野へ、そして那智山へ参詣されています。(熊野那智大社)
那智から那智勝浦新宮道路を経て熊野速玉大社9:32 熊野速玉大社9:44~10:51
* 天然記念物梛(葉脈のないなぎ)
熊野速玉大社御由緒
熊野速玉大社は、熊野三山のひとつとして全国に祀る数千社の熊野神社の総本宮です。今から約二千年ほど前の景行天皇五十八年の御世に、熊野三所権現が最初に降臨せられた元宮である神倉山から現在の鎮座地にお遷りになり、これより神倉神社の『旧宮』に対して『新宮』と申します。 御祭神は、熊野速玉大神(いざなぎのみこと)・熊野夫須美大神(いざなみのみこと)を主神に、十二柱の神々を祀り上げ新宮十二社大権現として全国から崇敬 を集めています。特に、孝謙天皇の御世、日本第一大霊験所の勅額を賜り、熊野三山の中でも逸早く『熊野権現』の称号を賜りました。「権現」とは仮に現われるの意味で、神様は御殿の中のもっとも清浄な奥処に鎮まりましますので、私達の目にはそのお姿を直接見ることができません。そこでそのお姿を仮に仏に変えて、我々の住む俗世界に現われるという考え方が浸透していきます。奈良朝末期にいたって、熊野速玉大神は衆生の苦しみ、病気を癒す薬師如来として過去世の救済を、またお妃の熊野夫須美大神は現世利益を授ける千手観音菩薩、家津美御子大神は来世浄土へ導く阿弥陀如来として位置づけられ、山伏や熊野比丘尼によって熊野権現信仰は飛躍的な拡がりを見せ、全国に数千に及ぶ御分社が祀られるにいたりました。さらに、中世熊野信仰の興隆にともない、皇室、公卿、武士中心から庶民信仰へと発展し、過去世救済、現世利益、来世加護を説く三熊野詣こそ、滅罪・甦りへ の道であるとして、「蟻の熊野詣」の諺のごとく熊野街道は賑わったのです。平成16年7月7日「紀伊山地の霊場と参詣道」として、世界文化遺産に登録されました。今回も、神倉山に参詣できなかった残念
熊野本宮大社神殿
日本第一霊験所・全国熊野神社総本社・熊野権現・熊野坐神社・熊野本宮・本宮官幣大社・式内名神大社・世界遺産・社殿三棟:国の重要文化財 熊野本宮大社は過去『熊野坐神社』と号し、熊野の神と言えば本宮のことを表していたものと推測できます。御祭神は三山共に共通する「熊野十二所権現」と呼ばれる十二柱の神で、主祭神(中心にお祀りする神様)は他二杜と異なる、「家津美御子大神」(素蓋鳴大神)です。第三殿誠誠殿を本杜と称してお祀りしております。また、家津美御子大神が造船術を伝えられたことから船玉大明神とも称せられ、古くから船頭・水主たちの篤い崇敬を受けていました。 特に有名なのは、平安時代に宇多法皇に始まる歴代法皇・上皇・女院の「熊野御幸」が百余度に及んだことで、公武問わず老若男女大勢の人々が競って参詣し「蟻の熊野詣」と呼ばれる現象まで起こすに至りました。当時・京都より大坂に出て海岸沿いを通り、田辺より山中の道に入り、本宮に至る行程がメインルートで、 「中辺路」と呼ばれた参詣道となつていました。ここを歩き、発心門王子社を入るとそこからが熊野の聖域となり、 伏拝王子杜に至れば谷の下方に本宮の偉容が目の当たりに拝され、あまりのありがたさに人々伏拝んだという逸話も残されております。また幾度かの御幸に供奉した藤原定家が『明月記』の中で「感涙禁じ難し」と記していることから 、困難な道を歩き御神前に詣でたことがいかにありがたく、いかに御神徳が高かったかの現れであると思われます。なお残念なことではありますが、明治二十二年の未曽有の大水害により社殿のうち 中・下社倒壊し現在地に上四杜のみお祀りすることととなり、他八社は石祠として旧社地大斎原にお祀りして今に至っております。出典:熊野本宮大社前宮司 熊野三山信仰事典(戎光祥出版)
4 311号を西へ富田川左岸、熊野古道中辺路、車窓から対岸の山に咲く桜
紀三井寺から紀伊水道 紀三井寺と桜
第二番札所紀三井寺ご由緒
紀三井寺は、今からおよそ1230年前昔、奈良朝時代、光仁天皇の宝亀元年(AD770)唐僧・為光上人によって開基された霊刹です。為光上人は、伝教の志篤く、身の危険もいとわず、波荒き東シナ海を渡って中国(当時の唐国)より到来されました。そして諸国を巡り、観音様の慈悲の光によって、人々の苦悩を救わんがため、仏法を弘められました。行脚の途次、たまたまこの地に至り、夜半名草山山頂あたりに霊光を観じられて翌日登山され、そこに千手観音様の尊像をご感得になりました。上人は、この地こそ観音慈悲の霊場、仏法弘通の勝地なりとお歓びになり、十一面観世音菩薩像を、自ら一刀三札のもとに刻み、一字を建立して安置されました。それが紀三井寺の起こりとされています。その後、歴代天皇の御幸があり、また後白河法皇が当山を勅願所と定められて以後隆盛を極め、鎌倉時代には止住する僧侶も五百人を越えたと伝えられています。江戸時代に入ると、紀州徳川家歴代藩主が頻繁に来山され、「紀州祈祷大道場」として尊這崇されました。正式には「紀三井山金剛宝寺護国院(きみいさんこんごうほうじごこくいん)」という当時の名称を知る人は少なく、全国に「紀三井寺」の名で知られていますが、この紀三井寺とは、紀州にある、三つの井戸が有るお寺ということで名付けられたといわれ、今も境内には、清浄水(しょうじょうすい)、楊柳水(ようりゅうすい)、吉祥水(きっしょうすい)の三井より清水がこんこんと湧き出して、年中絶えることがありません。(紀三井寺の三井水は昭和60年3月、環境庁より日本名水百選に選ばれました)西国三十三所観音霊場第2番目の札所である当寺は、観音信仰の隆盛に伴い、きびすを接する善男善女は数えるにいとまなく、ご宝前には日夜香煙の絶え間がありません。特に、ご本尊・十一面観世音菩薩様は、厄除・開運・良縁成就・安産・子授けにご霊験あらたかとされ、毎月十八日の観音様ご縁日を中心に、日参、月参りの篤信者でにぎわいます。春は、早咲きの名所として名高く、境内から景勝・和歌の浦をはじめ淡路島・四国も遠望出来る紀三井寺は観光地としても有名で、古来文人墨客にして杖引く人も多く、詩歌に、俳諧に、絵画にと、多くの筆の跡が遺されています。紀三井寺は以前、真言宗山階派の寺院でしたが、昭和26年に独立し現在は、山内・県下あわせて十六ヶ寺の末寺を擁する救世観音宗(ぐぜかんのんしゅう)の総本山となっています。 去る平成二十年五月二十一日(水)、こころの灯台、紀三井寺仏殿の入佛落慶法要が厳修され、寄木立像としては日本最大の仏像、総漆金箔大千手十一面観世音菩薩が開眼されました。
粉河寺に向かう途中和歌山城15:00 今日の宿丸浅旅館着17:00
平成25年3月31日(日)
四番札所粉河寺山門7:31 粉河寺参道
「風猛山」の変額のかかる中門7:39
石造りの庭園 中門から参道8:00
第三番札所粉河寺
開祖大伴孔子古(おおとものくじこ)宗派粉河観音宗(こかわかんのんしゅう)本尊千手千眼観世音菩薩(せんじゅせんげんかんぜおんぼさつ)奈良時代末 宝亀元年(770)の開創。当時、紀伊国那賀郡に住む 猟師大伴孔子古は、いつも幽谷の樹幹に足場を定めて、夜ごと猪や 鹿を狙っていたが、ある晩、光明輝く地を発見、発心してその場所に柴の庵を建てた。 後日、一夜を泊めてもらった童行者は、孔子古の願い(庵に仏像を安置すること)をかなえてやろうと、七日七夜、庵にこもり、等身の千手観音像を刻み立ち去った。 その後時移り、河内国の長者佐太夫の一人娘が長患いしていた。そこへ童行者が訪ね来て千手陀羅尼を誦して祈祷、やがて娘の病は回復した。童行者は長者がお礼にと申し出た七珍万宝を断り、娘が捧げるさげさや(お箸箱)と袴のみを手に「紀伊国那賀郡粉河の者だ」とのみ告げて立ち去った。 翌年春、長者一家は粉河を訪れたが、探しあぐねて小川の傍らで一休み、ふと流れる水が米のとぎ汁のように白いのに気がつき、粉河の証しであることを確信、さらにその川を遡り庵を発見した。扉を開けると千手観音が安置され、娘が差し出したさげさやと袴を持たれていたので、かの童行者は、実は千手観音の化身であったことが分かった。この開創の由来は、当寺所蔵の粉河寺縁起絵巻(国宝)等にて伝えられている。「大門」である。大門は三間楼門で、その規模は和歌山県では高野山、根来寺に次ぐ大きさといわれている。宝永4年(1706年)の建立とされており、総欅造りである。この大門は数年前に改修工事が行われた。「大門」は重要文化財に指定されている。「大門」をくぐり、石畳の参道を北に進む。参道が東に向かって右折しているので、参道を道なりにしばらく歩くと北側に「仏足石」が見える。
「童男堂」「出現池」」の前を更に東の方向に進むと、「中門」(記念写真)に着く。現存の中門は天保3年(1832年)の建立とされている。門には四天王が安置されており、中門といっても、堂々とした立派な門であり、西国札所の寺院の山門でもこれだけのものはそう多くはない。「中門」は重要文化財に指定されている
「中門」をくぐると直ぐ北側に「牧水の歌碑」が建っている。
粉河寺 遍路の衆の 打ち鳴らす 鉦々きこゆ 秋の樹の間に 牧水
第四番札所施福寺9:38
門前の不動堂 施福寺仁王門前に建つ寺碑
帰り道10:50
施福寺は槙尾山に有り 南に岩湧山 東に金剛山 北に大阪湾が眺望でき 夏山も冬山もよし春は桜 秋は紅葉が楽しめます。花山法皇足守の馬頭観音足腰を守り、長寿延命、身体健全の守護尊方違大観音 当山は第29代欽明天皇の勅願寺。 仏教公伝538年頃の創建で日本有数の古い寺です。役の小角、行基菩薩等の山岳修行の道場であり弘法大師 空海が勤操大徳について出家得度した寺と有名です。本尊は十一面千手千眼観世音菩薩で 御詠歌は、花山法皇のよまれた 「深山路(みやまじ)や檜原(ひばら)の松原分(まつばらわ)けゆけば巻(まき)の尾(を)寺に駒(こま)ぞいさめる」 で巻の尾とは役の行者が法華経を峯々に納経て、最後に当山に納経したので山号となっております。 古来より経塚がきずかれ故事にのっとって全国各札所巡礼が終れば最後に当山にお写経を納めて下さい。 槙尾寺は納経の寺です。(施福寺)
第五番札所葛井寺11:51
朱色が薄れた朱塗りの南大門 南大門から本堂
第五番札所葛井寺12:24
河内文化は、飛鳥時代・奈良時代にかけて発展し、当寺葛井寺も、百済王族「辰孫王」の子孫王仁氏一族の『葛井給子』が当時の天皇の仏教興隆政策に協力し、国家のためと称して創建されました。永正7年(1510)の勧進帳によると、『聖武天皇』の勅願による、2km四方の七堂伽藍の建立で、絵図によると、金堂・講堂・東西両塔をそなえた薬師寺式の伽藍配置を整えていたと考えられます。古子山葛井寺(紫雲山金剛琳寺ともいう)の勅号をいただき、落慶法要には、天皇自ら行幸されたといいます。その聖武天皇が春日仏師(稽文会・稽首勲親子)に命じて千手千眼観世音菩薩を成させ、神亀二年(725)3月18日入仏開眼供養のため藤原朝臣前卿を勅使に、行基菩薩を御指導師として勤められました。聖武天皇がその法要にご参賀された時に、葛井広成邸に泊られ宴をもたれたとも言われております。
行基菩薩によって開眼せられた後、大同元年(806)平城天皇の皇子阿保親王が勅を奉じて伽藍の修復を次いで親王子息の在原業平朝臣、真如親王等その一族によって諸堂をつぎつぎと造営されました。永長元年(1096)大和明日香の軽里、藤井安基が当時の荒廃を歎き、伽藍の大修理に尽力せられました。この事より安基の姓をとり、藤井寺ともいいます。地名はそのまま藤井寺と残ります。永正7年(1510)8月8日大地震で寺の諸堂が倒壊しましたが、そのあと再建のため諸国に勧進し、修復され現在の規模になりました。
左西名阪自動車道香芝、又昼食が遅くなる12:41
右名阪国道亀山から東名阪自動車道へ桑名JCTから伊勢湾岸自動車道刈谷PA15:32
東名高速道路海老名SA20:26 新宿西口21:37着
長いバスの旅お疲れ様でした。次回は6番から歩きます。参加された方は SHUN山行 を開いて下さい。山行を補足してあります。