2013.10.27 【高取山~念仏山】 報告
高取山~念仏山
平成25年10月27日(日)天気晴
リーダー:平山亨
協力L:佐野俊一郎・加藤正彦・小泉純子・加藤栄一
協力者:佐々木純子・
参加者:46名 男性16名 女性30名
小田急線新宿駅8:11発小田原行乗車=伊勢原バス乗換 9:30発栗原行乗車=乗降自由区間高取山登山口下車 栗原10:03→聖峠10:45→高取山11:47→念仏山13:31→14番鉄塔13:44→善波峠14:00→吾妻山14:42→東名高速道路15:09→鶴巻温泉駅解散15:18
歩程約4時間20分軽登山靴以上
概 要 高取山は丹沢大山の前衛にある低い山です。小田急線伊勢原北口から 神奈川中央交通バスで栗原行16分程で終点栗原手前自由乗降区間で聖峰・高取山登山口で下車、40分で東側の展望の良い聖峰に着く分高取山556,4m展望良は南東方向のみ、念仏山357m峰野菊と信仰の道1時間念仏山20分善波峠30分吾妻山東名高速をくぐり35分で弦巻温泉駅 道もしっかりとしていて歩きやすい。
三ノ宮・上栗原遺跡下書参照 聖峰・高取山分岐10:05
三ノ宮・上栗原遺跡 所在地伊勢原市三ノ宮字上栗原
この付近は丹沢山地東端の丘陵部にあたり、蛇行する栗原川が深い谷を造り、そこに注ぐ無数の流れが複雑な地形を形成しています。上栗原遺跡は谷に面した南向きの斜面に位置し、標高は約120mを測ります。
本遺構は、平成5年に市道590号線の改良工事に先立って発掘調査されました。その結果、崖面から15基の横穴墓が発見され、そのうち工事によって影響を受ける1~12号の12基をを調査しました。
横穴墓は6世紀の後半に神奈川県内に伝播し、7世紀いっぱいまで造らられます。崖や段丘の斜面に横穴を掘り、内部には石を敷き、入口に石を積んで塞いでいます、入口の石を取り除けば何度でも出入りできるため、一基に複数回の埋葬がされることが一般的です。石室を有する古墳と並んで、古墳時代後期に盛んに造られました。伊勢原市内にも150年程の間に数百基の横穴墓が造られたと考えられます。上栗原遺跡の横穴墓は関東ローム層を掘り込んでいるため、長い年月の間に天井が崩れ、4号と12号を除いて内部が埋まった状態で発見されました。横穴墓の構造で興味深いのは4号、5合が小さくて古い横穴墓を作り替えて構築され、さらにその入口斜面に横穴式石室のような石積みを有していた点です。この石積み施設は、上栗原遺跡の東側約600mに位置する下尾崎遺跡でも発見されており、横穴墓と横穴式石室をもつ古墳が混在して分布する伊勢原市域の特徴といえます。
副葬品としては、鉄鏃(矢じり)、小刀、素焼罌の皿、日まで焼いた壺や甁のほか、大刀の付属品の付属金具は金色に輝く耳飾り等の珍しい遺物も出土しています。そして最も特筆すべきものが5号横穴墓出土の鉄製馬具です。写真は馬に乗る歳に足をかける壺鐙で、出土例はこくないでも20に満たない貴重なものです。それに伴い鉄製の轡と帯金具も出土しています。下尾崎遺跡でも鉄製の輪鐙が出土しており、古墳時代後期の馬具については、この三ノ宮地区が県内一の集中を見せています。平成21年3月 伊勢原市教育委員会 今日は立ち寄りませんが、興味有る方は訪れて下さい。
フェンスに沿って登ると山の神 阿夫利神社の祭神 大山津見神10:25
しばらくはミカン畑の簡易舗装道路を歩きやがて登山道に。シカ止めの柵を越えすぐに山の神社、立休憩、神社裏に、九十九曲登り口と女坂の分岐があります。九十九曲を登ると、聖峰の頂上に到着。標高わずか380メートルほどの低山ですがすばらしい展望です。眼下には、伊勢原市街や平塚方面は湘南平、遠くには江ノ島から三浦半島まで望むことができます。
聖峰不動尊参道九十九曲がりを登る
平塚市・江ノ島 高取山に向う
聖峰は丹沢の南側にある低い山で、不動尊の建つ信仰の山でもあります。 聖峰からは新宿副都心や房総半島までも展望することができます。、標高375メートル聖峯の名は古い伝説のなかで生まれた。
天平の頃、紀伊国、高野山のふもと天野郷に、阿字の長者とよばれる賢女がいた。一夜一人の旅僧が夢枕に立ち、「私は世の中を救おうとする大願をもっているが、しばらく長者の胎を借りたい。」と言うと長者の口の中へ入ってしまった。やがて長者には立派な男の子が誕生し、長者は不思議な夢にちなみ、その子に「救世若」という名を付けた。「救世若」は比叡山に登り、円仁慈覚大師について修行をつみ、当地に来たのは貞観のはじめ頃(859年頃)であった。「救世若」は人々から「天野の聖」又は「子の聖」と呼ばれ、当峰を選んで不動尊をまつり、また、自らの練行の場としたので、聖峰の名が起きた。「救世若」は非常に長寿であったことや、足腰の病の神として人々にまつられている。「うもれ起」より (商工観光課)
野菊と信仰の道を合せ11:37 バラボラアンテナの建つ高取山山頂11:47
11:47~12:28昼食
登れども続く階段で喘ぎながら。やっとの思いで弘法山との分岐の平坦な尾根道に。聖峰から35分ほどです。そこから10分ほどで高取山山頂に到着。標高は聖峰より高い556mですが、まわりに木々が生い茂っているため見通しはよくありません。奥にはNHKの無線中継所の白いアンテナが立っています。展望は南東の平塚市方面のみです。
標識はしっかりしているみちに迷うことはない
高取山で昼食を取り、小泉リーダーの発声練習と 東関東大震災応援歌「花は咲く」の合唱練習をして、次の念仏山に向かいます。先ほどの弘法山分岐まで引き返し、弘法山方面に進みます。いきなり急な下り坂。木の根が張り出したところやゴロ石のところありで、逆コースでこれを登るのは結構きつそうです。
石仏
ほぼ下りの道を40分ほど歩き続け念仏山に到着。南西方面に眺望が開けて、富士山も見えるそうですが気が付きませんでした.
「念仏山の由来」
この山は、地図に記載されていない山ですが、昭和15年頃(1940年)まで旧名古木村の村人によって、この山頂で念仏講が行われていました。念仏とは仏を信じて南無阿弥陀仏を唱えるこであり、この山頂で南無阿弥陀仏を唱えると山裾の集落まで聞こえたと言われております。相模風土記によると。秋葉・愛宕・金比羅を合社 【太郎坊・次郎坊・山の神・稲荷を合祀して末社と記載されている】
【秋葉とは、静岡県の秋葉神社】【愛宕とは、京都府の愛宕神社】祭神は火之迦具土神 総本社は火伏せの神(おおむね小高い丘や、山頂にまつり信仰されている)
【金比羅とは、香川県の金比羅宮 祭神 大物主命】【山の神とは、大山阿夫利神社 祭神 大山津見神】【稲荷とは、京都伏見稲荷大社 祭神 宇迦之御魂神】【 太郎坊、次郎坊とは、天狗】平成18年3月 名古木里山保全協議会
善波峠に向かう途中にある高圧線の鉄塔。登山道は鉄塔の足の真下を通っています。
「矢倉沢往還」近世の交通路は五街道を中心に、本街道の脇にある往還が陸上交通の要として整備されていました。矢倉沢往還は東海道の脇往還として発達し、江戸赤坂御門から厚木・伊勢原・善波峠・曾屋(十日市場)・千村・松田惣領・関本などを抜け、足柄峠を超え駿河沼津宿まで延びていました。大山への参詣路として利用されていたため、大山街道と呼ぶ所もあります。現在の246号線は、概ねこの矢倉往還に沿って通じています。また、当時秦野の経済活動の中心をなしていた十日市場で開かれる市において、矢倉沢往還は物資運搬に大きな役割を果たしていました。秦野市
「御夜燈」この御夜燈は、文政十年(1827年)に旅人の峠越えの安全のために、道標として建てられました。点灯のための灯油は、近隣の農家が栽培した菜種から抽出した拠出油でした。この下に峠の茶屋が有り、その主人、八五郎さんの手により、明治末期まで点灯し続けられていました。その後、放置されたままになっていましたが、平成六年(1994年)地元の「太郎の里づくり協議会」の手により復元されました。伊勢原市
吾妻山へ関東ふれあいの道 吾妻山の神14:42
「吾妻山」
日本武尊は、東国征伐に三浦半島の走水から、舟で房総に向かう途中静かだった海が急に荒れだし難渋していました。そこで妻の弟橘比売は、「私が行って海神の御心をお慰めいたしましょう」と言われ海に身を投じられました。ふしぎに海は静まり無事房総に渡ることが出来ました。征伐後、帰る途中相模湾・三浦半島が望めるところに立ち今はなき弟橘比売を偲ばれ「あずま・はや」と詠まれた場所がこの吾妻山だと伝えられています。環境庁・神奈川県
(リーダーコメント)
台風一過の青空のもと、大勢の参加者でしたが、参加リーダーと協力者と会員の皆様の協力で事故も無く無事終わりました。平山亨