2013.12.22 【渋谷のルーツを訪ねる】報告
渋谷のルーツを訪ねる
平成25年12月22日(日)快晴
リーダー:佐野俊一郎
協力L:平山亨・坂寄牧子
協力者:佐々木純子
参加者:29名 男性11名 女性18名
ハチ公前9:00→渋谷近代学校発祥の地→鎌倉道(並木橋)→豊栄稲荷神社→渋谷城址(金王八幡宮)9:27→東福寺の梵鐘9:39→氷川神社(金王相撲)10:00→温故学会→國學院大學→吸江寺10:14→常磐松の碑→白根記念館(休館)→国連大学前の各地物産売り場11:00→明治神宮外苑→国立競技場(出陣学徒壮行碑)国立競技場建て替えで消えそうな碑を見ておきたいと急遽山行予定に組み入れる。
渋谷近代学校発祥の地は今は、JR・取り壊しの中の東横線下(暗渠)昔は渋谷川の近くこの地にあったそうだ今は、記念碑もない場所だ渋谷小学校発祥の地、近代小学校の始まりの学校で明治8年 (1875)に創立されました。民間人からの土地建築資金の提供により、かやぶき平屋建ての校舎を建設しました。また学校の運営費も近くの渋谷川にあった、「三井の水車」の利益の寄付で賄われていました。
豊栄稲荷とよさかいなり
稲荷橋の近くにあった田中稲荷が昭和36年、ここに移転し、改称しました。境内には庚申塔 13基、藏修館(武道稽古所)があります。現在も子供達の元気な声が聞こえます
金王八幡宮・こんのうはちまんぐう
この神社は渋谷氏の祖、河崎基家が寛治6年(1092)に創建したといわれています。現在の社殿は徳川家光が三代将軍に決まった時、守役の青山忠俊と乳母 の春日の局が慶長17年(1612)かけて造営したといわれています。その後、度々修理されましたが、江戸時代前期から中期にかけての建築様式をとどめています。(社殿と門が区に指定有形文化財)和算の解答を記した大きい絵馬「算額Jも必見の一つです。6月と12月には「茅の輪」くぐりが体験できます。
渋谷城跡
金王八幡宮を含むこの一帯は、渋谷氏一族の館跡といわれています。南に鎌倉道(現代の八幡通り)、北に大山道(現在の膏山通り)という交通の要地であり、西に渋谷川が流れ、東南には黒鍬谷(現在の青山学院の西の低い谷地)が囲んでいるうえ、かつては数カ所の湧水あるなど好条件を備えていました。
社殿右が金王桜 今は落葉して寒空に枝がピント伸びている。一重八重が一枝に混ざって開花する珍しい桜。源頼朝が父義朝に仕えた渋谷金王丸の忠節をしのび鎌倉の頼朝館内にあった桜を移植したといわれています。
東福寺梵鐘
東福寺は金王八幡宮の別当寺として建立され、鐘銘によれば、のちに源頼朝が修復し渋谷山東福寺としたといわれています。ここの梵鐘には宝永元年(1704)の銘があり、金王八幡の縁起など渋谷の歴史が刻み込まれています。当寺は渋谷の地名を谷盛庄と呼んでいたことがわかります。
氷川神社参道 金王相撲、境内には相撲の土俵があります。土俵は擂鉢状をした地形の底の部分にあり、傾斜面が観客席となっています。江戸時代には「郊外の三大相撲」として、大井の鹿島神社、世田谷宮坂の八幡神社と共に人気がありました。
渋谷氷川神社は、下渋谷村・下豊沢村の鎮守でした。代々伝えられてきた縁起絵巻があり、その絵には桃山美術の影響がみられます。(区の指定有形文化財・非公開)
旧渋谷村役場・旧渋谷町役場 は氷川神社前に建つ都営住宅の建っている所で何の記念碑もない、明治22年(1889)5月に渋谷村が成立し、以後渋谷町(明治42年1月)、昭和7年(1932)10月渋谷区と変遷した。昭和11年12月から現在の電力館渋谷支店の場所に渋谷区役所庁舎が完成し、その後昭和40年には現在の場所に移りました。
温故学会
國學院大學渋谷キャンパスのすぐ隣に、温故学会「塙保己一(はなわ ほきいち)史料館」があります。ここでは、国指定重要文化財「群書類従(ぐんしょるいじゅう)版木」計17244枚を所蔵、保管しています。
吸江寺きゅうこうじ
慶安3年(1650)麻布桜田町に石潭良全によってひらかれた。二代田神州良東紙の時、渋谷の今の土地に移り(1700年頃)、現在に至っています。
青山学院大学前 国連大学前の物産市
三日前の嵐で落葉の表参道けやき並木 神宮外苑絵画館前の銀杏並木
同期の桜
新宿区霞岳町 国立競技場マラソンゲート入口付近
昭和18年(1943)10月2日、勅令により在学徴集延期臨時特例が交付され、全国の大学、高等学校、専門学校の文科系学生・生徒の徴兵猶予が停止された。この非常措置により同年12月、約10万の学徒がペンを捨てて剣を執り、戦場へ赴くことになった。世にいう「学徒出陣」である。全国各地で行われた出陣行事と並んで、この年12月21日、ここ元・明治神宮外苑競技場においては、文部省主催の下に東京周辺77校が参加して「出陣学徒壮行会」が挙行された。折からの秋雨をついて分列行進する出陣学徒、スタンドを埋めつくした後輩、女子学生。征く者と送る者が一体となって、しばしあたりは感動に包まれ、ラジオ、新聞、ニュース映画はこぞってこの実況を報道した。翌19年にはさらに徴兵適齢の引き下げにより、残った文科系男子および女子学生も、軍隊にあるいは戦時生産に動員され、学園から人影が絶えた。時流れて半世紀。今、学徒出陣50周年を迎えるに当たり、学業半ばにして陸に海に空に、征って還らなかった友胸中を思い、生き残った我ら一同ここに「出陣学徒壮行の地」由来を記して、次代を担う内外の若き世代にこの歴史的事実を伝え、永遠の平和を祈念するものである。 平成5年(1993)10月21日 出陣50周年を記念して 出陣学徒有志
同期の桜 染井吉野桜
学徒出陣50年 平成5年10月21日植樹
壮行の動画です