2014.01.24~01.25【奈良 山の辺の道Ⅱ 、柳生街道Ⅰ,若草山山焼き】 報告 Taeko.Kobayashi
実施日 : 平成26年1月23日(木)~26日(日)
奈良 山の辺の道Ⅱ 、柳生街道Ⅰ,若草山山焼
係リーダー: 小林妙子
協力者: 石川孝子
参加協力リーダー: 宮本次子
参加者数 23名{男性1名;女性22名)
コースタイム
1月23日[木]
JR東京駅八重洲南口高速バス ①番乗場 奈良行★「青春エコD25号」レディス1号車
両車とも22:40出発=
1月24日(金) 天気 (-2/15℃)0% 晴
東ハイレベル④ やや健向き 歩程6時間 万歩計2万7千歩
JR奈良駅東口到着7:40 (不要の荷を駅から5’の宿へ置きに行く)
8::30 集合JR奈良駅8:34発=天理駅8:46(ボランテアガイド久保田 有様)9:00
[山の辺の道北コース11km] ―天理市役所前9:19—-天理教会本部9:26–
—西山古墳9:56—10:11—30’石上神社10:32-:58 ―10’布留の高橋11:12-‐
10’豊日神社11:22 ―豊田山城址11:43—–25’石上大塚古墳 赤土山;ウワナリ;
物部氏と和彌氏ゆかり和彌した神社 30’白川ダム 15’弘仁寺 15:00)―
JRいちのもと駅16:05-:25=(¥200)JR奈良駅16:50→駅前西口 (レストラン夕食各自。)
① 8名 ゲストハウス奈良小町4’ 〒630-8357奈良市杉ケ町41-2℡0742-87-0556
② 8名 ゲストハウス奈良小町4’ booking.com(8名分)
③ 2名 ゲスト奈良粋10’ 〒630-8228 奈良市上三条1-5
℡0742-87-0803(三条通り横の岡三証券さんの横の細い道入った所)
④ 5名 GH奈良ウガヤ5’ 〒630-8235奈良市奥子守町4-1
℡0742-95-7739 booking.com 12/20申込み済
JR 奈良駅前のローソンの信号を東へ渡り、まっすぐ来くと右手にあります。
奈良山の辺の道北コース ① 写真をご覧ください
山の辺の道 北コース② 写真をご覧ください
1月25日(土) 天気-(2/15℃)晴一時曇 若草山焼き18:00~ 晴
東ハイレベル④ やや健向き 歩程6時間30分 万歩計3万7千歩
(JR奈良駅前イオンファースト弁当7:00~; & 西口地下1F7:30~朝食可)
起床6:00 宿発7:45 JR奈良駅西口集合8:05(BG挨拶) 奈良バスターミナル西口
①番乗車(貸切直通バス) 8:12発=94番柳生方面行バス(¥960)=50’ 柳生上
下車9:06- :20→柳生藩家老屋敷(→柳生一族の墓→正木坂道場→大柳生集落
→街道一の古刹円成寺¥400→)
①柳生地区:芳徳禅寺、柳生家墓所、天石立神社、一刀石
②柳生~円成寺のハイキング:ほうそう地蔵、お藤の井戸、南明寺、夜支布山口神社
③円成寺:浄土式庭園、運慶作大日如来、国宝白山、春日神社
写真をゆっくりとご覧ください
柳生街道 ① ’14.1.25 午前
柳生街道随一の名刹 円成寺
奈良若草山の山焼
忍辱山バス停13:45-14:00(¥650) =バス30’ 押上町下車14:30 →お茶15:20-16-:30
→若草山焼き花火18:15~点火18:30/奈良公園若草山18:30-19:30。
(近辺の奈良公園内。) JR奈良駅レストラン街夕食20:00-45
JR奈良駅東口前1番乗場 21:05集合 丁度間一髪 雨が降り出すが、
バスに乗り込む(帰宅バス)
★青春エコドリーム2号(L)奈良21:15発=1月26日朝新宿6:05着(10名分)と(13名分)
奈良観光協会NPO法人ボランテアガイドへ案内を依頼 快く引き受けてくれました
山の辺の道のガイドさんは3年前と同じ方でした。古墳に詳しいです
1/24天理市観光課℡0743-663-1001; FAX0743-62-2880
( 弁当と交通費の実費¥2000)ボランテアガイド久保田有様1名
℡090-1965-5630;0743-69-2507
1/25奈良観光協会NPO法人(援助金¥200×23=¥4600)
BG有賀健様090-1242-2219 (0743-75-3213) 林 様計2名
(交通費バス代と弁当代実費として合計¥5220)
非常に感謝しています。無駄なく有効に歩けました。休憩の度数が少なく
時間内に終了する事が出来、大変良かったです。大変楽しい山行になりました。
山行を終えて所感
山の辺の道(1月24日金曜日)
山の辺の道は3年目前に南コースを歩き今回は後半を天理市観光課へボランテアガイドを依頼。
また同じ久保田氏でした。今回は人数が23名と多いのでマイクロスピーカーを持ち
エスコートしてくれました。
天理市に埋もれた奈良の歴史は、赤土山古墳やウワナリ塚古墳、石上大塚古墳などの
話と実際に古墳へ入り 体を小さくして石上町に所在する全長107mの前方後円墳で、古墳の周囲には
周濠をめぐらす。石室は巨石を用いた全長9~10m程の横穴式石室が築かれていた
ものと推測されるが、破壊を受けている。年代は、6世紀前半に築造された古墳時代後期の
古墳である。日本の歴史を古墳からかなりの様子を伺うことができる。
古墳もさることながら天理市庁舎前に万葉の歌碑があり
”石上(いそのかみ)振之高橋(ふるのたかはし) 高々尓(たかだかに)
妹之将待(いもがまつらむ) 夜曽深去家留(よそふけにける)” <万葉集・作者不詳>
「石上の布留川にかかる布留の高橋、その高い橋のように高々と爪立つ思いで、
あの女が待っているだろうに、夜はもうすっかり更けてしまった」
男の訪れを待ち焦がれる女の許へ、夜がふけてから通う男が詠んだ歌です。
現在の布留川の高橋をわたる-影媛の伝説悲話が残る路-「影媛伝説」
5世紀末、ひとりの美女をめぐってふたりの男が争った悲劇について「日本書紀」は伝えています。
美女の名は豪族物部(もののべ)氏の娘、影媛(かげひめ)。争った男はときの皇太子
(のちの武烈天皇)と、朝廷の権力者だった平群真鳥臣(へぐりのまとりのおみ)の子鮪(しび)。
海柘榴市(つばいち)の歌垣で、すでに影媛の心が鮪ものであり叶わぬ恋と知った皇太子は、
鮪を平城山に追いつめて殺し、さらに父の真鳥をも攻め滅ぼしてしまいました。
恋人の身を案じて山の辺の道を北へ追った影媛がそこで見たものは、
愛する男の無惨な死でした。 泣きながら影媛は歌います。
-石(いそ)の上(かみ) 布留(ふる)を過ぎて 薦枕(こもまくら)
高橋(たかはし)過ぎ 物多(ものさは)に 大宅(おおやけ)過ぎ
春日(はるひ) 春日(かすが)を過ぎ 妻隠(つまごも)る 小佐保(をさほ)を
過ぎ 玉笥(たまけ)には 飯(いひ)さへ盛り 玉盟(たまもひ)に 水さへ盛り
泣き沽(そぼ)ち 行くも影媛あはれ- 古墳時代以前日本最古の道,
ハイキングコースを歩きながらヤマトタケルが、人麿呂が歩いた道
奈良盆地の東に連なる美しい山なみ。その青垣の山裾を、かつて平城(なら)(奈良)から
石上布留(いそのかみふる)を過ぎ、三輪・金屋へ通じる古い道があった。
これが歴史に現れるわが国最古の道「山の辺の道」。
沿道には今も、記紀・万葉集ゆかりの地名や伝説が残り、多くの社寺や古墳が点在している。
踏みしめる古道の そこここに神話の世界が息づき、時間はいつしか古代へ還っていくようです
………石上神宮(いそのかみじんぐう) 国宝・重要文化財古墳時代,平安時代
ワタカ 神話の世界への入口は神さびた神杉の森
「石上 布留の神杉 神さびし 恋をもわれは 更にするかも」と万葉集にうたわれたこの神宮は
、布都御魂(ふつのみたま)大神を主祭神とし、種々の重宝や兵器が納められ、累代物部氏が
奉祀してきた。今も「七支刀」(ななさやのたち)をはじめ多くの国宝や重要文化財を伝えている。
うっそうとした杉木立に囲まれた鏡池には、伝説の魚といわれる馬魚(ワタカ)が棲み、
杜の静寂さは訪れる人を古代の幻想の世界へといざなってくれます。
石上神宮から影媛ゆかりの布留の高橋をわたり、青垣の山裾をたどって北へ向かうコースです。
影媛伝説のあとを追いながら弘仁寺・へと、山あいに隠れるように点在する清らかな寺々が
点在します。 天理から奈良へと続く今回歩く山の辺の道(北)コースは、前回の天理~桜井間の(南)コースにくらべて知名度も低く、訪れる人も少ないのですが、それだけにのどかな景観と俗化されていない、魅力的な史跡が残されているコースといえます。距離、所要時間 は、天理駅~円照寺前バス停まで
10.9㎞(2時間30分)とありますが いろいろ見学したり中に入り説明があると櫟本駅までで
7時間は かかりました。
更に【円照寺】は時間がなく省略しましたが
俗に「山村御殿」と呼ばれる美しい尼寺ですが、拝観はできません。開山は後水尾天皇の
皇女文智内親王で、寛文9(1669)年、現在の地に移されました。
法華寺・中宮寺と並ぶ大和山門跡寺院のひとつです。
三島由紀夫の小説「豊饒の海」に登場する月修寺のモデルといわれ、清らかな参道や
付近の小道には別格の趣が漂っています。次回機会がありましたら訪ねてみましょう。
キトラ古墳を時間があれば現在公開中なので訪ねたかった。しかしもう一日余裕が必要です。
上野国立博物館へ来ますので4月~5月には見られるという。
昔、奈良明日香へ来たとき高松塚古墳の極彩色の壁画を見ました カビが生え修復しなおした
とか 思い出があります。
柳生街道・若草山山焼き
柳生の里ハイキング(1月25日土曜日)
柳生街道を、反対方向に(柳生から奈良へ)歩き出しました。柳生の里から柳生藩菩提寺
「芳徳禅寺」ほうそう地蔵、おふじの井戸、南明寺、大柳生、夜支布(やぎう)山口神社を経て、
忍辱山(にんにくせん)円成寺からバスで奈良へ。大変 歩きました。
かって柳生但馬守宗矩や十兵衛が歩いたとは思えぬほど、今はのどかで静けさの立ちこめる道。
峠越えが2ヶ所有る。落葉の詰まった山道は東海自然歩道と重なり急な坂道で石畳になり歩きにくい。本日は出会う人がいませんでした。 先ずは柳生藩菩提寺「芳徳禅寺」へ赤い橋で今川を渡る。なんと立派な赤い木製の太鼓橋は凍っていて気をつけないと滑るのです、その山道を登って行くと、左手に柳生藩菩提寺の「芳徳禅寺」へ出た。急な階段を上り裏手の墓地へ階段でさらに上がり高台へ出て境内へ出ました。
臨済宗の寺院で「柳生宗矩」が父「石舟斎」の菩提を弔うために建立したものです。その後、柳生家の菩提寺となり本堂裏手には宗矩の墓石を中心に「石舟斎・十兵衛」など柳生一族の墓石が80基あまり整然と並んでいて、圧巻でした。参道を少し下ると柳生新影流の正木坂道場があった。かって柳生十兵衛が1万3600人の門弟を鍛えた道場で陣屋内にあったものを、この寺の境内に移築したのである。
かって徳川将軍家指南役の柳生流道場として、どれだけ数多くの剣士がこの正木坂道場で修業を積んだことか。
宮本武蔵や荒木又衛門もここで修行したという、静寂さが漂っていた。
この道場境内の小高い丘からも対峙するように小高い山があり、柳生藩家老屋敷が見えた。眼下にのどかな農村風景の柳生の里が遠望できた。そこへは時間がないので立ち寄れなかった
この住居は国家老小山田主鈴の旧宅でその後、時代小説作家の「山岡荘八」が昭和55年まで住み多くの小説が執筆されたところだ。昭和39年作家山岡荘八氏の所有となり。NHK大河ドラマ「春の坂道」の構想はここで練られたと言う。昭和55年、氏の遺志により山岡賢二氏から奈良市へ寄贈された。奈良市は昭和56年これを修復し,主屋の一部に資料を展示して一般に公開している。また徳川家光が寄贈したという大きな杉が枯れたまま広い一般墓地の上に見受けられた。
道路標識に従い田園風景が広がる。街道から再び山道に入り東海自然歩道になりしばらく歩るくことになる。 柳生の怪石である、石舟斎が天狗と思い、切った石が一刀石で、天乃石立神社を祀り、見学し分岐まで戻った。
神殿橋を渡り、ほうそう地蔵へ向かい、阪原(かえりばさ)峠を越えた。
南明寺に着くが 工事中で、重文は見られず境内の見事な宝篋印塔や十三石塔を見る。休憩後に峠を超えて大柳生集落を過ぎ水木古墳を見る。
大きな立磐神社の石が、ご神体と云う 夜支布(やぎゅう)山口神社を10分ほど拝願し、白砂川をわたる。 やがてせせらぎの河音がして終着点の忍辱山バス停です。柳生街道随一の名刹である円成寺が見えてきた。昼食を円成寺の周りの低い石垣に座り昼食とする。13:00をすでに過ぎ、帰路のバスは14:00でそのあとは2時間後と云う ぎりぎりのコースタイムです。食後30分 拝観料400円を払い国宝を見せていただく。国宝の運慶25歳時の大日菩薩が良かった。
山奥の寺としてはそれなりの歴史のある寺で、桧皮葺きの楼門、舞台付寝殿造りの本堂は共に重要文化財で、境内の奥まったところにある小さな春日堂・白山堂は日本最古の春日造り
社殿として国宝に指定されている。
境内に入り、ぐるっと一巡し30分後に、バス停(14:00)から奈良の押上町(14:35)で下車する。
大 仏 殿手前の春日野園地の近く茶店に入り、1時間ほど休憩し、若草山の舞台前へ
陣取り、花火や山焼きの見物に備えた。二人のガイドさん(林さんと有賀健さん)には
大変お世話になりました。1日中お話が聞けました。
おかげで疲れないで、楽しい山行になりました。
【奈良市経済部観光課発行:柳生の家老屋敷パンフより】
柳生藩(1万石)の家老、小山田主鈴(おやまだしゅれい)の旧邸。主鈴は、
文政9年(1826)国家老として江戸から奈良に移り、柳生藩南都屋敷を預かって
藩財政の立て直しに成功、弘化3年(1846)家督を譲って退隠、さきに藩公柳生但馬守
俊章から賜っていたこの地に新邸を営んで余生を送った。
それがこの屋敷で、弘化4年(1847)8月に着工、翌嘉永元年(1848)6月に
上棟したものである。主鈴は、安政3年(1856) 75歳をもってこの世を去ったが、
その子孫は明治4年(1871)の廃藩置県後もここにとどまり、旧藩主柳生俊益(俊郎) も
三たびこの屋敷に立ち寄っている。昭和を迎えて米蔵その他の付属施設が撤去され
たりしているが、主屋はほぼ創建当初 の姿をとどめ、奈良県下では
ほとんど唯一の武家屋敷の遺構である。(略)
・小山田主鈴
天明元年(1781)~安政3年(1856)。岩代国岩瀬郡牧之内村(現福島県天栄村牧之内)に
生まれた。白河藩の郷士小山田孫 右衛門の弟、幼名を弥一郎と言った。
文化3年(1806)25歳のとき江戸の柳生藩邸に仕え、才腕を認められて重職に栄進、
文政9年(1826)45歳のとき国家老として奈良に移った。柳生藩南都屋敷を預かり、
大阪堂島の米相場で巨利を得て藩財政の窮乏を救うなど、よく経世の実をあげた。
伝承によれば、米相場の成功の陰には、こんにゃく橋の下の流れの水温によ って
米価の騰落を予想した妻保女の示唆があったという。 歴史の非常に興味ある所でした