2014.06.20~22 【西国札所巡りⅥ】報告 | 東京ハイキング協会

2014.06.20~22 【西国札所巡りⅥ】報告



西国札所巡りⅥ
平成26年6月20日(金)~22日(日)
リーダー:佐野俊一郎
協力L:平山亨
協力者:青山昌次・佐々木純子
参加者:19名 男性4名 女性15名
行先】京都府 旅の詳細は SHUN山行及びhttp://www.saikoku33.gr.jp/参照
コース:(6月20日)JR恵比寿駅8:52=東名高速道路足柄SA22:19=(6月21日)豊田JCT=伊勢湾岸自動車道刈谷PA=新名神高速道路=大山崎JCT=京都縦貫自動車道=丹波JC=国道27号線京丹波わちIC=京都縦貫自動車道=綾部JCT=舞鶴若狭自動車道=綾部PA4:45=舞鶴東IC=丹後街道27号線=青葉山松尾寺7:06⇔綾部JCT=京都縦貫自動車道=宮津天橋立IC=成相寺9:46→傘松公園11:00→天橋立→知恩寺(文殊菩薩)12:31=宮津天橋立IC13:00=綾部JCT=京丹波わち=国道27号線=丹波IC京都縦貫自動車道=亀岡IC=穴太寺14:55=宿サンロイヤル15:26 (6月22日)宿サンロイヤル8:00=亀岡IC=大原野IC⇔善峯寺8:36・大山崎JCT=名神高速道路=養老SA11:58=小牧JCT=中央自動車道=八ヶ岳PA15:26=石川PA18:05=新宿西口19:00

第29番松尾寺松尾寺がその中腹に位する青葉山(699米)は、福井縣から望見すれば、東西に並び立つ双方が一つに重なり、その秀麗なさまは「若狭富士」と呼称されている。「富士なくば 富士とやいわん 若狭なる 青葉の山の 雪のあけぼの」 この山は死火山で、昔火焔を吹き上げ、噴流は直下の日本海に注いで壮絶な水煙をあげていたものと思われる。この厳しい表情をたたえた険峻な山は、早くから修験道修行の場となっていた。 時に慶雲年中、唐の僧、威光上人が当山の二つの峰を望んで、中国に山容の似た馬耳山という霊験のある山があったことを想起された。登山したところ、果せるかな松の大樹の下に馬頭観音を感得し、草庵を結ばれたのが、和同元年(708年)と伝えられる。 爾米、今日まで千三百年を経ているが、その間、元永二年(1119年)には、鳥羽天皇、美福門院の行幸啓があり、寺領四千石を給い、寺坊は六十五を数えて繁栄した。当地方唯一の国宝の仏画も、美福門院の念持仏であったといわれる。 その後、正徳6年(1716年)まで、五度火災に見舞われたが、享保十五年(1730年)牧野英成によって、漸く今日の姿を整えるに至った。

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松尾寺山門前                         山門

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本堂下                              本堂前馬頭観音

第28番成相寺一人の僧が雪深い山の草庵に篭って修業中深雪の為、里人の来住もなく食糧も絶え何一つ食べる物もなくなり、餓死寸前となった。 死を予感した憎は「今日一日生きる食物をお恵み下さい」と本尊に祈った。すると夢ともうつつとも判らぬ中で堂の外に狼の為傷ついた猪(鹿)が倒れているのに気付いた。僧として、肉食の禁戒を破る事に思い悩んだが命に変えられず、決心して猪(鹿)の左右の腿をそいで鍋に入れて煮て食べた。やがて雪も消え里人達が登って来て、堂内を見ると本尊の左右の腿が切り取られ鍋の中に木屑が散って居た。それを知らされた僧は観昔様が身代リとなって助けてくれた事を悟り、木屑を拾って腿につけると元の通りになった。此れよりこの寺を成合(相)と名付けた。

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成相寺本堂                          本堂前

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聖観世音菩薩像                       展望台から宮津湾

「股のぞき」で逆さにのぞき見るその景色は、目の錯覚により海と空が逆になり、まさに神話のように「天に架かる橋」のように見ることができます。

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傘松公園股のぞき                     傘松公園から宮津湾

籠神社は第四代懿徳(いとく)天皇の御代(紀元前507年)に始まった「藤祭」を第二十九代欽明(きんめい)天皇(539~571年)の御代に「葵祭」と改称し、2500年以上その祭祀を継承しています。

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籠神社                           茅の輪と正殿

京都府北部にある『天橋立』は、陸奥の『松島』・安芸の『宮島』とともに、日本三景とされている特別名勝のひとつです。
江戸時代のはじめ、全国を行脚した儒学者・林春斎が「日本国事跡考」で“三処奇観”と記したのが『日本三景』のいわれの始まりで、『天橋立』は全長3.6km、幅20~170mの砂嘴(さし)で、大小約8000本もの松が茂っています。その形が「天への架け橋」のように見えることから『天橋立』の名が付きました。
今から約4000年前、世屋川をはじめとする丹後半島の東側の河川から流出した砂礫(されき)が海流により流され、野田川の流れからくる阿蘇海の海流とがぶつかったことにより、ほぼ真っ直ぐに砂礫が海中に堆積しできたものといわれています。
しかしながら、古い書物(丹後風土記)によりますと、その昔、天橋立は「天への架け橋」といわれていました。
イザナギノミコト(男神)という神様が、イザナミノミコト(女神)の住む地に、天上から通うために天と地の間に長いハシゴをかけて行き来していたと言われおり、ある日イザナギノミコトが寝ている間に、そのハシゴが倒れて天橋立となったという神話が残っています。

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天橋立松並木

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阿蘇海と宮津湾をつなぐ橋                   船を通す回転橋

本堂の文殊菩薩を安置する文殊堂は、室町時代に創建された。銅板葺きの宝形作り、また内陣の4本柱が当時の面影を残し、「切戸の文殊」として親しまれている。奈良の「安倍文殊」、山形の「亀岡文殊」と並んで日本三文殊の一つ。「三人よれば文殊の知恵」で親しまれている智恩寺の本堂。写真の山門は黄金閣と称され宮津市指定文化財。

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文殊堂山門                          文殊堂本堂13:01

第21番穴太寺 建立の後、再三の兵火により焼失。現在の堂宇は徳川末期に再建されたもので、本尊の木彫聖観音立像は、秘仏として本堂厨子内に祀られています。また、本堂内の室町時代の作といわれる黒光りする木彫涅槃像は、病魔平癒の なで佛様として名高くぜひお参り下さい。 毎年八月九日は孟蘭盆会精霊迎えの浄行の日にあたり、古来よりこの地方一円の新仏を当山にてお迎えする習慣があり、終日境内は善男善女の参詣で賑わいを見せます。そしてこの日は、書院と庭園とともに、数ある寺宝の一部を公開しています。

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穴太寺山門                         穴太寺本堂内に釈迦涅槃像

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本堂から伽藍                        穴太寺庭園拝観

6月22日(日)
小雨の中恒例早朝散歩は亀山城跡
丹波亀山城本丸跡石垣の散策
明智光秀は、天正5年(1577)頃、丹波攻略の拠点とするために丹波亀山城を築城しました。保津川と沼地を北に望む小高い丘(荒塚山)に築かれましたが、正確な史料が残っていないため全容は分かっていません。光秀は近隣の村から人を呼び寄せ、城下町を形成しました。天正8年(1580)に丹波国を拝領した光秀は、本格的な城下町の整備と領国経営に着手しますが、そのわずか2年後に「本能寺の変」が起こります。亀山城はその後、羽柴秀俊(小早川秀秋)によって修築され、慶長15年(1610)岡部長盛の代に天下普請により近世城郭としての亀山城が完成します。この築城にあたっては城づくりの名手・藤堂高虎が縄張りを務め、五重の層塔型天守が造営されました。現存する古写真は、明治初期に撮影されたものです。
亀山城は、明治維新以降廃城処分となり、所有者が転々とします。紆余曲折の末、荒れ果てた城跡を宗教法人大本が入手し現在に至ります。石垣は大本によって修復されており、総合受付で見学を申し込むと内堀跡や本丸付近の石垣を見学することが可能です。
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第20番善峯寺 当山は、長元2年(1029)源算上人の開山である。源算上人は、恵心僧都の高弟で、因幡(鳥取)に生まれ、横川(比叡山)の恵心僧都に従い、顕蜜の蘊奥を極め47歳の時、当山に入られ小堂を結び、十一面千手観音の像を刻み本尊となし、仏法を興隆された。長元7年9月、後一条天皇より、鎮護国家の勅願所と定められ良峯寺の寺号及び聖詠を賜わった。
“野をもすぎ 山路に向う、 雨の空 善峯よりも 晴るる夕立”
以来歴朝の御崇敬篤く、長久3年、後朱雀天皇、洛東鷲尾寺より本尊仁弘法師作、十一面千手観音像を当山に遷して本尊とし、先の十一面千手観音像を脇立とされた。
白河天皇、諸堂を建立し給い、その後慈鎮和尚善恵上人、その高徳を相嗣がれ、また青蓮院の宮が代々当山に住まわれた。即ち覚快、道覚、慈道、尊円、尊道、尊祐、尊真、尊寳、尊證、各法親王である。そして西山の宮(門跡)と称された。後花園天皇(102代)が伽藍を改築せられ、僧坊52の多きに及んだが、応仁の乱に兵火を免れず焦土と化した。その後徳川五代将軍の母堂桂昌院が当山を復旧され、二百石及び山林42万5千坪を寺領とし明治に至った。重要文化財として、多宝塔・大元師明王軸 その他文化財多数あり。

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四国からのお遍路さん一緒に                善峯寺東門

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日本一の松                         あじさい寺

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奥の院へ                          奥の院薬師堂

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善峯寺本堂                            山門前
10:10善峯寺出発帰路につく新宿到着19:00
次回は8月29日~31日 琵琶湖に浮かぶ第30番宝厳寺・31番長命寺・32番観音正寺・33番華厳寺と回り結願とします。
又、30日は鵜飼船を借りきり、鵜飼を楽しみます。ぎふ長良川鵜飼―風雅1300年 今に伝える感動絵巻― 戦国のロマンを今も感じさせる金華山と山頂にそびえる岐阜城を背景に、名水100選に選定されている清流長良川で、ぎふ長良川鵜飼は行われています。漆黒の闇の中、赤々と燃える篝火を川面に映し、鵜匠と鵜が一体となって繰り広げる古典漁法「鵜飼」は、現在を忘れ千古の昔にタイムスリップしたような幽玄の世界へと誘います。と言われています。

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