2014.11.16 【夕焼け小焼けの里】報告 平山
夕焼け小焼けの里
平成26年11月16日(日)晴
リーダー:平山亨
協力L:佐野俊一郎・加藤栄一
協力:青山昌次・佐々木純子
参加者:39名 男性10名 女性29名
JR高尾駅北口改札口9時15分集合 9時34分発陣馬高原下行乗車=川原宿バス停下車9:51→松竹橋10:03→松竹公園コース説明10:20~10:35→浄福寺10:45~10:55→大久保集落→稲荷大神→興慶寺11:41~昼食12:43→力石13:06→中村雨紅の生家高井家の墓→夕焼小焼の里13:26~13:54→宮尾神社13:43→口留番所13:57→関場バス停解散14:02
陣馬街道は八王子の追分で甲州街道と分かれて、諏訪、恩方を経て案下峠(現:和田峠)、倉子峠を越えて佐野川(神奈川県)に至るのが案下路です。佐野川からは甲州街道へと繋がっていたのでしょう。戦国時代より甲州への近道として使われ、江戸時代には「恩方街道」「佐野川往還」とも呼ばれていた旧道です。
郷愁をさそう夕やけ小やけの里へ、北浅川に沿って陣馬街道を遡る、北浅川は八王子市の陣馬山を源流としています。
我々の世代には、夕焼け小焼けの歌を口ずさむと子供の頃を思い出す童謡ですが、今の子供は歌っているだろうか?「夕焼小焼」の生まれた山里の、陣馬街道は古寺や石仏がやさしい笑顔で迎えてくれる。
今日は秋晴れの日曜日で、ハイキング日和、JR高尾駅北口バスターミナルは大混雑です、陣馬高原下行1番乗車口で定刻バスに乗車する、河原宿バス停下車、集合場所が無いので、陣馬街道南西に進み恩方小学校を過ぎ、先には圏央道が見えると左に松竹集落がある、松竹橋バス停から松竹橋を渡り集落に入り松竹公園に集合する。
公園で挨拶と今日のハイキングの説明を済ませ、もと来た松竹橋に戻り陣馬街道を上流へ向う、圏央道を過ぎると、すぐ右に浄福寺があり参詣する、竹林の美しい寺、室町時代の様式ををそなえた、都有形文化財の千手観音厨子がある。また、裏山一帯が浄福寺城と呼ばれる城跡だ。
参詣を済ませ、先に進む、大久保信号で直進旧陣馬街道の、大澤橋を渡る、大久保部落に入ると右奥に稲荷社が北浅川岸に建立されている、この社にお参りして、恩方中前の、西大澤橋を右に分け、庚申塔を左に右岸にそって進む、自然の残る旧道を進むと、黄色い竹がある家で、轍は消える。畑の脇道を、進むと残材置き場が右に見て広場に出ると、右に板当橋で陣馬街道に出る、西に進むと駒木野橋を渡り、駒木野集落で北に辿る、ここからは歩道が無い、自動車に注意しながら歩く、黒沼田橋を渡る、黒沼田バス停、狐塚バス停を過ぎると興慶寺さんの入口に寺名を書いた大きな石碑が右に建つ、右に参道をのぼり、墓地の間の急坂を上る本堂でお参りする。庫裏から駐車場を自動車道に下りる道左に「夕焼小焼」の作詞者中村雨紅の「故郷と母と」の詩碑ががある。詩碑をおくに上り曲がり返すと鐘楼があります。
浄福寺にも興慶寺、近在の寺にも鐘があり「夕焼小焼」にうたわれた”山の寺の鐘”はどの寺の鐘かわからない。高台にある興慶寺の庭からの見晴らしは良い、寺から墓地の間を下ると、中程の駐車場に入ると、左に墓地管理事務所があるここを借りて昼食を取る。
興慶寺から陣馬街道は上り坂になり過ぎると、右側の小林盛重様(上恩方町1595)屋敷の中に力石がある。小林さんに石のいわれの説明をして頂く、男石と女石が離れること出来なく動かすことが出来なっかったというような、内容は昔からある、男女の和合の話のようだ。
小林さん宅を右に進むと、右の高台に、全面ガラス張り建物が建つのが見えてくると、夕やけ小やけふれあいの里に着く。手前右に中村雨紅の墓所が建っている、ここからすぐに、八王子市役所産業振興部観光課の夕やけ小やけの建物がある、地元物産や野菜果物の販売所も併設。
この前の石段を登ると山を巻く山道に出る。左に川の上の道を進むと、陣馬街道から分かれて来た道を合せ急坂を右に登ると宮尾神社の石段の下に着く、正面に公衆トイレ、左に石段を上ると、正面の石段の上に拝殿、左に神楽殿、先の本殿前左に童謡「夕焼小焼」の詩碑が建っている。中村雨紅は、この神社の神官の子として生まれ、教師を務めながら、野口雨情に師事して作詞をしていた。「夕焼小焼」は小学校の勤めの帰り陣馬街道の夕焼けの風景をうたったようだ。
宮尾神社を下り陣馬街道に出て右に向かうと中村雨紅の門構えの生家が右にある。
その先に懐かしい郵便局の建物、口留番所跡 天正年間(1573~91)甲州裏街道の警備のため北条氏によって設けられたもので、旅人を調べたり物資の出入りを監視した。ただし、関所のように役人が常駐していたわけでなく、村人が交代で勤務していたという。悲運の姫君、武田信玄の息女松姫は甲斐の地を逃れ、この番所を通って落のびたという、関所跡の碑の横に松姫の碑が建っている。番所跡の隣に、幕末の頃に建てられた家の座敷を開放した店「なんじゃもんじゃ」今営業しているのかな?関場バス停に着く。
関場バス停の先の醍醐川に架かる関場の落合橋。を左に渡りバスは陣馬高原下に向かう。
醍醐川は八王子市の最高峰である醍醐丸(867m)から流れ下りは浅川の最上流の支川で、落合橋下の堰堤で醍醐川は終点落合橋のすぐ下流で案下川(河川管理上は浅川)に合流する。
北浅川は八王子市の陣馬山を源流とする。 陣馬山から流れ出した本流である浅川(俗称:案下[あんげ]川)と高留地点(落合橋)で合流する。 この付近の下流部に八王子八十八景の一つである「夕焼け小焼けふれあいの里」がある。
陣馬街道に建つ十三夜塔 河原宿瀧乃澤螢橋脇の庚申塔
恩方一小校庭石垣上の北条氏照比左御前 松竹橋上流
松竹集落公民館の庚申塔10:04 松竹公園朝の挨拶10:20
松竹公園出発10:35 松竹橋に戻り陣馬街道10:41
頭上圏央道 陣馬街道から浄福寺枝垂れ桜10:45
浄福寺に参詣 浄福寺本堂と裏山浄福寺城跡
竹林の美しい浄福寺 浄福寺の六地蔵
大久保集落旧陣馬街道 大久保集落に渡る大澤橋上流
大久保集落稲荷大神入口の地蔵尊 稲荷大神社裏を北浅川は流れる
旧陣馬街道の大久保集落 分岐にも庚申塔
北浅川の右岸を旧道にそって上る 道路脇に珍しい黄色い竹11:11
旧道にて小休憩 消えた旧道に建つ磯崎さん宅
旧道から北浅川を渡る板当橋上流11:18 ここから陣馬街道は駒木野橋を渡り北に向かうが歩道のない道歩きになる
黒沼田橋で左岸に出る11:32 黒沼田(くるみだ)バス停先陶芸苑と壺
狐塚バス停過ぎると興慶寺入口11:41 興慶寺山門
興慶寺本堂参詣を済ませ 興慶寺庫裡駐車場から車道脇に中村雨紅歌碑”ふる里と母と”
『ふる里と母と』作詞中村雨紅 作曲海沼実
今も帰ればふる里の 岡に残る与 傘松よ 村のはずれの閻魔堂 ねんねこさらさらどんとろり 川の瀬音も子守唄
おいしそうでもへび苺 きれいな実でも牛殺し その葉取るなよ実をとるな いつもやさしくあたたかく いまもきこえる母の声
雨紅書落款
歌碑の裏の道を上ると興慶寺鐘楼 興慶寺墓苑管理事務所を借りて昼食12:00~12:43
墓苑事務所出発 力石バス停の先に力石をお祀りした小林盛重さん宅13:06
宮下のバス停を過ぎると右上の山に”夕やけこやけの里”のガラスの建物がある 中村雨紅家の墓
その先右に中村雨紅の生家高井家の墓があり(夕焼け小焼け)の歌詞がある
夕やけこやけの里の楓 13:54
夕やけこやけの里の橋下渓谷 宮尾神社に上る
折り返し上る 住吉神社・琴平神社合社鳥居
正式社名は住吉神社琴平神社合社といい、宮尾山上にあるところから宮尾神社と呼ばれる。創建は元暦年間(1185年頃) で、境内に浅間社、向う森に伊勢神宮の末社を持つ。(御祭神)底筒男命・中筒男命・大物主神・崇徳天皇・神功皇后
宮尾神社拝殿 拝殿前の詩碑の前で合唱
中村雨紅と「夕焼小焼歌碑の歌碑」
童謡「夕焼小焼」の作詞者、中村雨紅は宮尾神社の境内で明治30年2月6日に、宮司高井丹吾の三男として出生。本名は高井宮吉。恩方村報恩高等小学校卒業後、明治44年に青山師範学校(東京学芸大学)に入学し、卒業後は第二日暮里小学校に奉職した。
大正7年頃から子どもの情操教育のため同僚と執筆を始めた。翌年、野口雨情に師事、雨情のの「雨」と染まるの意味を持つ「紅」を筆名にした。姓の「中村」はその時の養子先、町田市相原町の神主の姓である。
結婚後は厚木市に居住、厚木高等女学校に奉職。昭和47年5月8日死去。行年75歳。歌碑は昭和31年9月に雨紅の還暦を祝い、生家跡に郷土の有志によって建立された。
宮尾神社参道 中村雨紅の生家
残っていた上恩方郵便局名が右書き 口留番所跡13:57
なんじゃもんじゃ説明参照 関場橋、左北浅川 右醍醐川
席場バス停解散14:02
〈案下道〉
八王子と上野原を結び、恩方の炭や薪などの物産を運ぶ幹線道路として、また甲州街道の裏街道として明治22年頃までその役目を担っていた案下道(佐野川往還)。神社に至る九十九折りの坂道・愛敬坂が、現在の陣馬街道の旧街道にあたる案下道の名残をとどめる。坂の途中には武田信玄の息女・松姫が甲州から逃れてきて最初に逗留した金照庵の名が刻まれた石仏や、明治21年に馬方が建てた馬頭観世音の石碑が建つ。(宮司 高井住和)
リーダーコメント:初冬の晴天の日、夕日の里を寺の鐘を聴きながら歩いて来ました。皆さんお疲れ様でした。
平山亨。