2015.05.03 【滝山城址のつつじ】 報告
滝山城址のつつじ
平成27年5月3日憲法記念日
リーダー:佐野俊一郎
協力L:平山亨
協力者:青山昌次・佐々木純子
参加者46名 男性10名 女性36名
JR八高線小宮駅10時集合
王子市の北端、多摩川と秋川の合流点の南側に広がる加住丘陵は、一部が都立滝山公園に指定されています。都立滝山公園はこの自然公園の中ほどにあり、多摩川を望む標高160mの丘に滝山城址があります。城址は遺構の保存がよく、周辺は豊かな雑木林に覆われています。滝山公園は昔から桜の名所、あるいはハイキング、コースの丘として親しまれていますが、四季を通じて雑木林がおりなす彩りにも、また心和みを感じます。
コース:JR小宮駅9:54→小宮さつき公園10:14→関根家長屋門10:15→八王子水再生センター10:18→オリンパス10:22→西玉神社10:34→平町地蔵院のイチョウ10:50→八王子車検場入口11:08→東京環状滝山城址入口11:11→古嶺ヶ原園地11:25→滝山城址中の丸11:57~12:40昼食→本丸12:42→滝山街道13:01→谷地川黄金橋13:10→高橋13:15→滝山橋(東京純心女子大学)→梅坪橋13:25→新横山橋13:29→道の駅八王子滝山13:35→169号線左滝橋14:06→左入橋(八王子バイバス)14:12→新横水橋→八方地橋14:22→青木橋14:25→西野橋14:32→万年橋14:33→鶴巻橋14:42→田島橋69号道14:45→八高線踏切14:52→小宮駅解散14:57
平成26年12月21日(日)秋川の遅い秋を探しに、滝山丘陵を歩いた時.春の桜の頃に来たいと言われて、花の頃を考えている間に時は過ぎてしまい、ツツジの頃になりました。今回は秋川を渡らず、滝山城址から、西に下りて谷地川下りJR八高線小宮駅に戻るコースを取りました。
滝山城跡については末尾に掲載しました。
JR八高線お小宮駅9:54 北口10:07
北に突き当りを左に 小宮さつき公園10:14
公園正面に八高線ガード手前右に 関根家長屋門
関根家長屋門について由緒は末尾に掲載しました。
関根家長屋門前を北に下ると正面に八王子市水再生センター、久保山中央通りを左に、坂を上がっていくと八高線を跨ぐ小宮八石陸橋渡り、オリンパス正面の信号を右にオリンパス敷地に沿って北西にバス通りの緩やかな坂道を登って行くと平町バス停、バス停の手前オリンパス敷地の終わったところを右に入ると右に多摩川右岸段丘上に出る、西玉神社の屋根がしたに見える段丘の石段を下ると、大蔵院裏の墓地と、多摩川の展望が開ける、下に西玉神社の拝殿が建つ、拝殿を左に見て敷地にそって石段を下ると、墓地下に建つのが大蔵院だ
八石橋10:18右にオリンパス技術センター10:22に沿って上る
平町バス停を右に多摩川右岸段丘に出る10:34段丘上から拝島方面
西玉神社から大蔵院10:50 多摩川台地
大蔵院本堂 平町大蔵院のイチョウ
市指定天延記念物 平町大蔵院のイチョウ 所在地 八王子市平町二百五十三番地 指定年月日 昭和三十九年七月二十三日
この木は、文政六年(1823)に書かれた『武蔵名勝図会』にも「囲り一丈九尺許」と記され、当時からこの近辺のシンボル的な樹木であり、樹齢は五百年と推定されている。また、名主平氏が家康から賜った金銭を御神体とした東照宮を祀ったため「金銭平の大皇孫樹」とも言われている。雄株なのか実はならないが、乳根は多数垂れ下がっている。
幹の一部は空洞化している。○イチョウ 中国原産で、日本に渡来した時期は明らかではない。全国各地の神社仏閣、庭園などに植えられ巨樹・老木として天然記念物に指定されているものも多い。八王子市では他に「甲州街道のイチョウ並木」と「大塚神明社のイチョウ」が天然記念物に指定されている。平成二十年一月三十一日 八王子市教育委員会
大蔵院から日陰を探しながら滝山公園に上リ、11:01
坂を下ると16号八王子自動車検査登録事務所左手前に滝山城址入り口案内板に従い山道に入る11:11
城址入り口からすぐ右に標識と階段11:15
緑の尾根を古峰ヶ原へ
都立滝山公園に入る11:45 木橋11:49
滝山城入り口。唯一、尾根続きのこの場所は滝山城の弱点であったと考えられる、その為、防御は厳重を要した、この橋は「引橋」だったと思われる、下の堀は大池の土手とつながり、一大防御線を考えた縄張(城の設計)になっていた。
カゾノ屋敷 形部屋敷
中の丸11:57 中の丸から多摩川
二の丸12:00~12:40昼食 本丸へ引橋下は深い堀跡
本丸に祀られる霞神社 霞神社の裏多摩川寄りに金比羅社
滝山城本丸址の碑
此の城は関東の名城といわれ天文五年(1536)北条氏康同二十一年(2552)上杉謙信 永禄十二年(1569)武田信玄の諸豪からの猛攻を受けている。大永元年(2521)始めて大石定重之を築き、定久之を受けついで北條氏照の居城となった。
猶この城の城下町は八王子市の発祥地である。八王子市長 野口義造
本丸から多摩川・秋川の合流部 本丸から下る12:50
滝山城の詳細は末尾に掲載
左は二の丸址 千畳敷址左が三の丸跡
三の丸址から天野坂を下り滝山城址下バス停 途中の社
加住町滝山街道に下る。 谷地川に架かる黄金橋13:10
ここから遮蔽物のない陽光の下谷地川を下る。
高橋下流13:15 梅坪橋から右岸土手道13:25
土手上に年月の重ねた欅 対岸に新横山橋13:29
道の駅八王子滝山13:35 道の駅ハワイアン演奏フラダンス
休憩後出発14:00 169号左滝橋から再度谷地川を下る14:06
新左入橋下流14:12 八方池橋から八王子バイバス16号線14:21
青木橋下流14:27 万年橋した日陰で休憩14:38
鶴巻橋と八高線鉄橋14:40 田島橋から八高線鉄橋14:45
田島橋多摩大橋通りで谷地川と別れる
八高線を跨ぐ多摩大橋通り14:52 JR小宮駅解散14:57
小宮町の関根家は、「八石下」の地名や、大和田町の「関根神社」にも関係するという、地域を代表する名家である。関根家の入口に建つ長屋門は、どっしりとした重量感が感じられる。
関根家長屋門建造年代は不明だが、家人の伝承では十九世紀前半の建造という。小屋に用いる材の表面に見られるチョウナ仕上げの状態より、伝承時期の建造と考えられる。通り部正面の冠木、桟梁、人見梁を入れて板壁を立て、更に敷桁、セガイ梁を見せる造形は、当地の長屋門としては比較的豪華な構えである。また、東西室全面に設けられた出格子は、極めて高い格式を表現する形式である。関根家は江戸中期から裕福で名主を務め、幕末頃から代々医師を職業とした。その社会的ステイタスを表現する形式として、意図的に豪奢な造りを選択したと考えられ、市内に類を見ない特殊な例である。(参考:八王子市郷土資料館『八王子市伝統的建造物等文化財調査報告書』平成13年3月)
建物の重厚さは、その財力や社会的地位によって生み出されたものだというが、敷地も奥が見えない程に広い。
国指定の史蹟、滝山城は戦国時代の中頃、大永元年(1521)に武蔵国守護代の大石定重が、この城の北西1,5kmの高月城から移り築城したものと伝えられます。定重の子定久のとき北条氏康の支配お受け、その子氏照を養子に迎えて、滝山城は大石氏から北条氏照の居城となりました。氏照はさらに城を拡充し、その規模雄大さは当時関東屈指の山城と称されました。本丸、中の丸、二の丸、空堀などの巧みな遺構にそれがうかがえます。
上杉謙信、武田信玄などから猛攻を受けた滝山城ですが、なかでも信玄、勝頼父子による永禄12年(1569)10月の城攻めは、熾烈を極めたといわれます。後に北条氏照は領地の備えをより固めるため、南西約9kmの地に八王子城を築き滝山城から移りました。移転の時期は定かではなく、天正の中頃(1580年代)と推測されます。
白亜の天守閣も、高い石垣もない、典型的な中世城郭の縄張りをもつ滝山城ですが、木立の深い城址にたたずむとき、かって名城といわれた滝山城の面影がしのばれます。
滝山公園の植物
本来この地の植生の中心はシラカシでした。現在見られるコナラやスギなどの林は、後に薪炭材などを得るため、人が手を加えた二次林といわれる林です。
主な樹木:コナラ、クヌギ、エゴノキ、ホオノキ、ソメイヨシノ、ヤマザクラ、シラカシ、スギ、ヒノキ、アカマツ
城下町
滝山城下には横山、八日(市)、八幡の三宿が、小規模ながらも城下町をかたちづくり市も開かれていました。
この三宿も城とともに八王子城下に移りましたが、落城後は現在の市内に移り市の中心として発展してきました。また元の場所にも地名が残りました。元八王子と呼ばれる所以です。【公益法人東京都公園協会】
夏日の暑い中お疲れ様でした担当リーダー