2015.06.23 【江戸三十三観音巡りNO3】報告 | 東京ハイキング協会

2015.06.23 【江戸三十三観音巡りNO3】報告



江戸三十三観音巡りNO3
平成27年6月23日(日)曇小雨
リーダー:佐野俊一郎
協力L:平山亨
協力者:佐々木純子
参加リーダー:村上健一・下田恵美子
参加者:31名 男性9名 女性31名
JR山手線駒込駅南口ホテルメッツ駒込東京メトロ南北線入り口9寺集合
駒込駅9:02→六義園9:08→目赤不動9:25→9番定泉寺9:29~9:39→8番清林寺9:47~10:02→23番大円寺10:10~10:20→10番浄心寺10:42~11:00→11番円乗寺11:23~11:37→12番田通院解散11:59~12:19→東京都戦没者霊園12:31→小石川後楽園14:29~15:22 歩程3時間。
集合JR駒込駅9:00                       本郷通を渡る9:06
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六義園午前9時開園のはずだが 9:08             目赤不動(南谷寺)9:25 150621_090829 150621_092540
六義園概要末尾に掲載
赤目不動
目赤不動は、もとは赤目不動尊と言われていた。 元和年間(1615~24)比叡山の南谷(みなみだに)に万行律師がいて、 明王を尊信していた。ある夜、伊勢国(三重県)の赤目山に来たれとの夢見があり、赤目山に登り、 精進を重ねていた時、虚空から御声があって、一寸二部の黄金造りの不動明王像を授けられた。
9番定泉寺9:29                          9番定泉寺本堂9:39
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浄土宗寺院の定泉寺は、東光山見生院と言います。太田道灌の矢場跡があったと伝えられる本郷弓町に蜂屋九郎次郎善遠が開基、増上寺十八世定蓮社定誉随浪和尚が開山となり、元和7年(1621)に創建、明暦の大火後当地へ移転したといいます。
8番清林寺9:47                          8番清林寺10:02
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浄土宗寺院の清林寺は、東梅山花陽院言ます。創建年代は不詳ですが、鎌倉光明寺住職を後務めることになる観誉龍脱和尚(観誉祐祟上人)が開山となり、永正年間(1504~1521) に神田四軒町付近に創建したといいます。その後焼失し永く無住が続きましたが、天暦和尚が中興、慶長年間(1596-1615)神田柳原へ移転、慶安元年(1652)当地へ移転しました。
23番大円寺10:10                           ほうろく地蔵
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23番大円寺                                  10:20
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曹洞宗寺院の大円寺は、金龍山と言います。大円寺は、上州茂林寺十二世久山正雄大和尚が開山、石河土佐守勝政が開基となり、神田柳原に慶長2年(1597)創建、慶安2年(1649)当地へ移転したといいます。境内には、”八百屋お七”にちなむほうろく地蔵の他、高島秋帆、斉藤緑雨の墓所があリます。
10番浄心寺10:42                           10番浄心寺
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浄心寺霊園の立川談志墓                 立川談志師匠戒名11:00
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浄土宗寺院の浄心寺は、湯嶋山常光院と言います。還蓮社到誉文喬和尚(元和7年1617年寂)が開山、畔柳助九郎が開基となり元和2年(1612)湯島妻恋坂付近に創建、振袖火事により当地へ移転したといいます
11番円乗寺11:23                       11番円乗寺
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円乗寺の六地蔵11:37
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天台宗寺院の円乗寺は、南縁山正徳院と言います。圓栄法印が天正9年(1581)本郷に密蔵院として創建、元和6年(1620)實仙法師が圓乗寺と寺号を改め、寛永8年当地へ移転したといいます。天和の大火の起因となった八百屋お七の舞台ともなった寺院で、現在も八百屋お七の墓所が残されています。。
善光寺坂の善光寺11:54
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12番伝通院山門11:59                     12番伝通院本堂
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伝通院書院                             伝通院墓所
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伝通院本堂前で解散12:19
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浄土宗寺院の伝通院は、無量山寿経寺と言います。浄土宗中興の祖了誉聖冏上人が応永22年(1415)に小石川極楽水に創建、慶長8年(1603)徳川家康公の生母於大の方(法名傳通院殿)埋葬に際して寺を当地に移して再興、増上寺源誉上人が兼務したといいます。浄土宗関東十八檀林のひとつ、増上寺の次席で、830石の朱印状を拝領、徳川家の菩提所となり、数多くの末寺を擁していました。
東京都戦没者霊苑13:31
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春日通に出てJR線・地下鉄後楽園に向かう途中、3日後に迫った沖縄戦終結の日。亡くなった人たちも含め、東京都戦没者霊苑に鎮魂のお参りをする。拝観遺品展示室で戦争の遺品と出会う
遺品展示室は先の大戦で戦没された方々が遺された手紙、千人針、鉄兜などの遺品等を御遺族からお預かりして展示しています
小石川後楽園に入園する
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【六義園概要】
元禄8年(1695年)五代将軍・徳川綱吉から与えられたこの地に、柳沢吉保が、7年の歳月をかけて「回遊式築山泉水(かいゆうしきつきやませんすい)庭園」を造りました。ここは平坦な武蔵野の一隅だったので、庭を造るにあたり池を掘り、山を築き、千川上水の水を引いて大泉水にしました。
六義園は吉保の文学的造詣の深さを反映し、和歌の趣味を基調とした繊細で温和な日本庭園になっています。庭園の名称は、中国の古い漢詩集である「毛詩」に記されている「誌の六義」すなわち風、賦、比、興、雅、頌という六つの分類法の流れを汲んだ和歌の六体に由来します。
庭園は中の島を有する大泉水を樹林が取り囲み、万葉集や古今和歌集に詠まれた紀州(現在の和歌山県)の和歌の浦の景色を始め、その周辺の景勝地や中国の故事にちなんだ景観が映し出されています。
庭園は明治時代に入って三菱の創業者である岩崎家の所有となり、昭和13年に東京市に寄付されて一般公開されました。なお、昭和28年3月31日に国の特別名勝に指定されました。
【小石川後楽園概要】
江戸時代初期、寛永6年(1629年)に水戸徳川家の祖である頼房が、江戸の上屋敷の庭園として造ったもので、二代藩主の光圀(みつくに)の代に完成した庭園です。光圀は作庭に際し、民の儒者である朱舜水(しゅしゅんすい)の意見をとり入れ、中国の教え岳陽楼記(がくようろうき)の「(士はまさに)天下の憂(うれい)に先だって憂い、天下の楽しみに後(おく)れて楽しむ」から【後楽園】と名づけられました。
庭園は池を中心にした「回遊式築山泉水庭園(かいゆうしきつきやませんすいていえん)」になっており、随所に中国の名所を名づけた景勝を配し、中国趣味豊かなものとなっています。そして、これらによって湖・山・川・田園などの景観が巧みに表現されています。
この地は小石川台地の先端にあり、神田上水の分流を引き入れ築邸されました。また光圀の儒学思想の下に作庭されています。
なお、後楽園は昭和27年3月、文化財保護法によって特別史跡及び特別名勝に指定されています。特別史跡と特別名勝の二重指定を受けているのは、都立公園では浜離宮とここの二つだけです。全国でも京都市の鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)、醍醐寺三宝院。奈良県の平城京左京三条二坊宮跡、広島県の厳島を合わせ7ヵ所だけです。

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