2015.08.09 【大山街道NO1】 平山亨報告
大山街道NO1
平成27年8月9日(日)曇・晴れ
リーダー:平山亨
協力L:佐野俊一郎
協力者:佐々木純子
参加L:中嶋要一
参加者: 36名、男性12名、女性24名、
東京メトロ南北線・地下鉄半蔵門線永田町駅紀尾井町方面改札口9a出口階段上8時30分集合
永田町→赤坂御門跡8:37→豊川稲荷8:51→牛啼坂→高橋是清翁記念公園9:16→外苑前9:29→表参道駅前9:51→青山学院→宮益坂→渋谷駅(八チ公)10:15~10:29→道玄坂上→上目黒大阪→氷川神社11:00→目黒川大橋→池尻稲荷神社11:14→三軒茶屋→世田谷通り→環状七若林→駒留八幡神社11:56~12:30→大吉寺→ボロ市通り→世田谷代官屋敷13:04→大山街道旅人の像→用賀追分→真福寺解散13:59
赤坂御門江戸城外堀にあった郭門の一つ赤坂御門があった所、寛永13年(1636)筑前福岡藩主黒田忠之により石垣が築かれ、常時3人の見張番がいて「赤坂見附」とも呼ばれていた。相模へ向かう大山街道の起点。
大山街道始点赤坂御門の説明板 説2
不の標識
このマークは几号水準点と呼ばれています。説1 赤坂見附跡
出発8:37 弁慶橋か ら赤坂プリンスホテル
弁慶橋からニュ-大谷 外濠弁慶橋注3
豊川稲荷8:51 説4 弾正坂信号を渡り虎屋本店を下り牛鳴坂
牛鳴坂になでからくだ 246号に出ると前に赤坂御用地9:16
246号を左に薬研坂を下る 薬研ざかを下り3つ目の角を右に上がると高橋是清翁記念公園説5
青山1丁目から赤坂御用地説7 聖徳記念絵画館前イチョウ並木9:29説6
西に進み明治神宮表参道9:51説8 青山学院大学前に国連大学
宮益坂へ渡る 宮益坂右に御嶽神社
JR渋谷駅前の忠犬ハチ公像10:15~10:29休憩 スクランブル交差点
道玄坂を上る 坂上左に道玄坂の碑説9
旧山手通りを通り大山街道大阪 氷川神社に参詣
氷川神社正殿11:00 富士講の浅間神社
氷川神社鳥居下に大山街道の道しるべ
首都高大橋ジャンクション側に渡り大橋1の案内に従い旧道を上って行くと右に池尻稲荷神社11:14
三宿交差点で246号と合わせる 西に進むと左に昭和女子大11:28
246号・世田谷通り分岐に立つ道標 説10 環七若林交差点を左に
駒留八幡神社昼食11:56~12:30 駒込八幡神社正殿説11
昼食後世田谷通りに戻り西へ大吉寺12:53
大吉寺前の世田谷通りの信号を渡り、世田谷中病院信号を右にボロ市道りを西に進むと、左に代官屋敷跡13:04説12 説13
道路拡幅で行き場を失った、大山道の道路標識の庚申塔が世田谷資料館に集められています。
ボロ市通りを出て桜町小前を南に進む大山街道 ここの道標も世田谷資料館にある
弦巻5公園に大山詣での像13:07説14
弦巻4サンクス前の馬頭観音 用賀3大山街道追分新石柱、旧は資料館へ
用賀中町通りから真福寺13:57 真福寺本堂
真福寺解散14:04
説1、それは、この「不」の記号が三脚のついた机に似ており、机は几に通じるということから几号水準点と呼ばれました。「不」の横棒が標高を示す位置です。この水準点は、明治初期に刻まれたものですが、多くが石造物に刻まれたので、現在でも各地に残されています。江戸城の大手門や桜田門にも残されています。
「几号」の「几」は「几帳面」の「几」で「き」と読みますが広辞苑によれば几は机の意味があります。この標石に彫られた記号が三脚のついた机に似ており、こう呼ぶのかもしれません。「高低几号」、「几号高低標」または漢字の「不」に似ているので不号水準点ともいわれています。いずれにしても明治初期に内務省(内務卿:大久保利通)が地図つくりを試みていた当時の水準点標石で独立した標石のほかに建物、鳥居などの永久構築物に刻印された場合もあります。
説2、史跡 江戸城外堀跡 赤坂御門
正面にある石垣は、江戸城外郭門のひとつである赤坂御門の一部で、この周辺は「江戸城外堀跡」として国の史跡に指定されています。江戸城の門は、敵の侵入を発見する施設であるため「見附」とも呼ばれ、ふたつの門が直角に配置された「枡形門」の形式をとっています。赤坂御門はその面影をほとんど残していませんが、現在でも旧江戸城の田安門や桜田門には同じ形式の門をみることができます。赤坂御門は、寛永13年(1636)に筑前福岡藩主黒田忠之により、この枡形石垣が造られ、同16年(1639)には御門普請奉行の加藤正直・小川安則によって門が完成しました。江戸時代のこの門は、現在の神奈川県の大山に参拝する大山道の重要な地点でもありました。明治時代以降、門が撤廃され、その石垣も図のように大部分が撤去されましたが、平成3年に帝都高速度交通営団による地下鉄7号線建設工事に伴う発掘調査によって地中の石垣が発見されました。現在、この石垣の下には、発掘調査によって発見された石垣が現状保存されています。千代田区教育委員会寄贈 帝都高速度交通営団
説3弁慶橋
弁慶橋ここの堀は江戸開府の頃、弁慶小左右衛門と云う者が設計、以後弁慶堀と呼ばれ、明治22年(1889)新たに橋が架けられた時、堀の名前に因み、「弁慶橋」と命名されたと云う一説がある。現在の橋は昭和60年(1985)に作られたもの
説4豊川稲荷
青山通りを西に坂を上ると豊川稲荷江戸町奉行として有名であった大岡越前守忠相の子、忠宣が赤坂の屋敷内に豊川稲荷を祀ったのが始まり。明治20年(1887)現在地に移転した。豊川稲荷は本来は佛閣、正式には「豊川荼枳尼天堂」。
説5高橋是清翁記念公園
高橋是清は安政元年(1854)、江戸の芝に生まれ、後に日銀総裁、大蔵大臣、総理大臣等の要職を歴任した。昭和11年(1936)所謂、226事件で自宅にて暗殺された。享年83歳。その屋敷地が昭和13年遺族より東京都に寄付され記念公園となる。
説6聖徳記念絵画館前イチョウ並木
明治神宮外苑明治19年、陸軍青山練兵場として利用された所。大正4年(1915)以後10年がかりで洋式庭園として整備、大正15年には聖徳記念絵画館が完成した。青山通りからのイチョウ並木は四季を通じて美しい風景。
説7赤坂御用地
御苑東通り、青1交差点から赤坂御用地・東宮邸・秋篠宮邸・三笠宮邸・寛仁親王邸・高円宮邸
説8明治神宮表参道
明治神宮表参道大正9年(1920)代々木に明治神宮が創建されたが、その翌年大正10年、ここ青山通りから神宮橋まで表参道として約1kmの歩道、ケヤキ並木がパリのシャンゼリゼ通りを模して誕生した。
説9坂上左に道玄坂の碑
江戸時代以来、和田義盛の子孫大和田太郎道玄がこの坂に出没して山賊夜盗のように振る舞ったとの伝説がありました。しかし本来の道玄坂の語源は、道玄庵という庵(いおり)があったことに由来すると考えられます。平成16年度 渋谷区教育委員会
与謝野晶子の歌碑 母遠(とほ)うて瞳(ひとみ)したしき西の山 相模(さがみ)か知らず雨雲(あまぐも)かゝる
説10 三軒茶屋
江戸時代、大山街道が世田谷上町の方へ向かう登戸道と、二子の渡しへ向かう二子道とに分かれる三叉路に三軒の茶屋があった。田中屋、信楽(後に石橋楼)、角屋で、大山詣での旅人にとって、ちょうど良い一服の場所であった。
説11駒込八幡神社
鎌倉時代後期、徳治3年(1308)この辺りの領主北条左近太郎入道成願により創建されたと云われる。戦国時代、世田谷城七代目城主吉良頼康が側室「常磐姫」の胎内にいた子を追福の為、若宮八幡を祀ったとの伝説も残っている。
説12世田谷代官屋敷
江戸時代、彦根藩世田谷領の代官を代々務めていた大場家住宅で、昭和27年東京都の史跡に、昭和53年、主屋と表門が国の重要文化財に指定された。また敷地内には、昭和39年世田谷区の郷土資料館が建設されている
説13ボロ市
毎年、12月と1月各15、16日の2日間、門前の通りは有名な“ボロ市”で賑わう。
説14大山詣で
大山旅人の像かつて蛇崩川の源流が流れていた所。昭和60年3月、大山道児童遊園が解説された時、この旅人像が建てられた。また、ここを横切る道は平成8年東京都が定めた「歴史と文化の散歩道」世田谷コース。
リーダーの一言:7日間、続いていた猛暑日もストップし朝から気持ち良い風が吹いて助かりました。参加の皆さん長距離の参加を有り難う御座いました。)