2015.11.15 【江戸三十三観音巡りNO8】報告
江戸三十三観音巡りNO8
平成27年11月15日(日)雨のち曇晴
リーダー:佐野俊一郎
協力L:平山亨
協力者:佐々木純子
参加L:村上健一・下田恵美子
参加者:28名 男性12名 女性16名
観音巡礼とは各寺院の観音さまを巡り、心の迷いを浄化し、自分自身をみつめなおす旅です平安時代の中期に僧侶達の修行としては じまったといわれ、西国三十三観音霊場が日本最古で観音巡礼の元祖といわれています。これをきっかけに各地さまざまな三十三観音巡礼が形作られ、江戸時代になってから庶民の間でも広まり、さらにさかんに行われるようになりました。その中には江戸三十三観音霊場、山の手三十三観音霊場、深川三十三観音霊場など、いろいろな観音霊場がありましたが、明治に入りさまざまな社会の変化や寺社の消長に伴い一旦は廃れていきました。「昭和新選江戸三十三観音霊場」として再興されました。参考図書【現代に残る”江戸”が 薫る】文化図書
JR田町駅10:00を北西に第一京浜国道を跨ぐ歩道橋田町駅前商店街を西に三田3信号で301号線を渡り、左に尾根道聖坂を上る、500m左に26番済海寺10:15・亀塚公園、道路右には寺町、魚籃坂上を右に下ると25番魚籃寺10:45、魚籃坂を登り返し坂上が伊皿子信号、伊皿子坂を下る、突当り信号が27番道往寺裏口を下り、表山門から入山する11:01。帰りは裏から泉岳寺に11:21、さんもんを右に桂さかに出ると29番高野山東京別院11:54、二本榎通りを南に、高輪東武ホテルを右に柘榴坂、解散12:30→JR品川駅
JR田町駅南口コンコース10:00 北に第一京浜国道を跨ぐ
田町商店街を西に 301号三田3信号を渡る
次の信号を左に聖坂に上る
坂の途中右に亀塚稲荷神社 26番済海寺坂上に建つ10:15
済海寺境内にフランス公使館跡 正面に本堂御朱印はここ
26番浄土宗寺院の済海寺は、周光山長寿院といいます。済海寺は、法誉上人念無和尚(寛永3年1626寂)が開山、長岡藩主牧野駿河守忠成(法名廣暢院殿教套心鈬威堯大居士)が開基となり、元和7年(1621)創建、以後牧野家の菩提寺となっていたといいます。亀塚正観世音菩薩像
観音堂は門を入って左 済海寺隣に亀塚公園
縄文時代の高輪台 貝塚
縄文時代の人びとは、高輪の大地の下に広がる海から多くの貝をとってきて食べました。貝ばかりでなく、鳥やけものを食べたあとの骨や、家の中のごみ、こわれた土器や石器のかけら、炉からかき出した灰やもえざしの炭などもいっしょにすてられました。こうして貝塚ができあがったのです。ですから、貝塚を調べると、当時の人々の食べていた食物の内容や、生活のありさまがよくわかります。ここにある貝塚は、伊皿子貝塚のなかで厚く貝がつもった部分を、接着剤で接合してはぎとり、保存したものです。黒くしまのように横に走っている層は木炭の層、ねずみ色になった貝は火で焼けて変色した貝です。カキばかりが集まっている部分、アカガイに似たかたちをしているハイガイが集まっている所など、貝層はいろいろな部分からできています。さまざまな層が、何枚もかさなりあって堆積しているありさまは、縄文時代の日日の生活のつみかさねを無言で示してくれます。案内板から
亀塚公園を出発10:40 魚籃坂を下ると魚籃寺10:45
25番魚籃寺本堂 魚籃寺を左に上ると伊皿子交差点
25番浄土宗寺院の魚藍寺は、三田山水月院といいます。魚藍寺は、法誉上人が大分県中津市の圓應寺地中に魚藍院として元和3年(1617)創建、寛永7年(1630)三田に移転したといいます。法誉上人の弟子称誉上人が承応元年(1652)観音堂を創建して一寺となったといいます。法誉上人は、済海寺、道往寺も創建した高僧です。魚藍正観世音菩薩像
伊皿子交差点に歯科医学発祥の地碑 伊皿子坂を下る
信号を左に迂回して道往寺山門11:01 27番道往寺本堂
道往寺墓所右に観音堂 道往寺から泉岳寺へ
27番来迎山道往寺道往寺の開基は江戸時代の寛文年間(1661~1673年)で江戸三十三観音霊場第二十六番目札所の済海寺の住職の隠居寺でした。江戸時代、この付近一帯は台地で伊皿子坂と呼ばれる道往寺の裏手にある坂の下はすぐに海岸となっており、江戸湾を見渡すことができたといわれています。東京大空襲で都心一帯は空襲に遭いましたが、道往寺では庫裏は焼けたものの本堂は戦火を免れました。
聖観世音菩薩・千手観世音菩薩と江戸三十三観音霊場のご本尊が2体あり、西方三十三観音霊場では聖観世音菩薩は第二十一番目、千手観世音菩薩は第二十二番目でした。両観音とも秘仏となっており、普段は見ることが出来ませんが、年に一度10月の最後の土曜日のお十夜に公開されます。
西方観音札所標石江戸時代に西方観音霊場第二十一番目・二十二番目であったなごりを、西方観音札所標石でみることができます。
泉岳寺11:21 泉岳寺山門
泉岳寺本堂 赤穂浪士の墓
泉岳寺は曹洞宗の寺院で、曹洞宗の本山は二つあり、一つは道元禅師が開かれた福井県の永平寺、もう一つは横浜鶴見の総持寺です。泉岳寺は慶長17年(1612年)に門庵宗関(もんなんそうかん)和尚(今川義元の孫)を拝請して徳川家康が外桜田に創立した寺院です。(現在の警視庁の近く)
しかし寛永18年(1641年)の寛永の大火によって焼失。そして現在の高輪の地に移転してきました。時の将軍家光が高輪泉岳寺の復興がままならない様子を見て、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名に命じ、高輪に移転した泉岳寺はできあがったのです。浅野家と泉岳寺の付き合いはこの時以来のものです。一般的には赤穂義士のお墓があることで有名です。
29番高野山
泉岳寺山門前を右に、さらに右に坂を上って行くと、高輪台小を右に送り、狭い通りを二本榎通りに出て、左に高輪警察署隣に高野山は建つ
高野山東京別院11:54 本堂内陣右に観世音菩薩は安置12:13
高野山真言宗の高野山東京別院は、高野山真言宗総本山高野山金剛峰寺の東京別院です。高野山東京別院は、江戸に徳川幕府が開かれた際に高野山の宝門・寿門の学侶方の在番所として慶長年間日輪寺内に開創、明暦元年(1655)芝二本榎の地を下賜され、延宝元年「高野山江戸在番所高野寺」として建立されたといいます。御府内八十八ヶ所霊場1番札所、関東八十八ヶ所霊場特別霊場、江戸三十三観音霊場29番霊場です
新高輪プリンスホテルを左に柘榴坂を下る 解散12:30