2015.12.20 【大山街道No5 】 報告 平山亨
大山街道No5
平成27年12月20日(日)快晴
リーダー:平山亨
協力L:佐野俊一郎
協力者:佐々木純子
参加者28名 男性9名 女性19名
大山街道
江戸赤坂御門を起点としして、雨乞いで有名な大山阿夫利神社(神奈川県伊勢原市)までの道です。東海道と甲州街道の間を向かう脇往還(五街道など本街道以外の支街道で、休泊機能の備わった道)として、「厚木街道」「矢倉往還」等とも呼ばれてきました。文九(1669)年には、溝口村、二子村が矢倉沢往還の宿として定められています。江戸時代中期には、庶民のブームとなった「大山詣り」の道として盛んに利用されるようになり、この頃から「大山道」「大山街道」として、有名になりました。江戸時後期には、駿河の茶、真綿、伊豆の椎茸、乾魚、秦野地方のたばこ等の物資を江戸に運ぶ大切な輸送路として利用され、これらを商う商人たちで大変栄えました、このように大山街道は多くの人々や物資が往來し、文化や情報が行き交い、様々な交流が生み出されてきた歴史ある街道です。
コース:小田急線海老名駅8:30→(海老名中央公園七重の塔)モニュメント8:37→厚木街道→小田急田原線跨線橋8:49→海老名市立図書館(一大縄)→大綱橋→相模線踏切→河原口→總持院9:11→有鹿神社9:18→渡船跡9:41→相模大橋(相模川))→厚木陣屋跡(厚木神社)10:02→→小田急小田原線ガード下→宝安寺→最勝寺10:37→熊野神社10:41→智恩寺→旧道→平塚街道碑→三島神社11:21~12:00昼食→永昌寺→長徳寺12:05→法徳寺12:23→玉川橋→大厳寺13:15→円光寺→小田急跨線橋→小田急線愛甲石田駅13:40解散
海老名中央公園8:37
海老名市観光シンボルモニュメント ビナウォーク「ショッピングセンター」
七重塔 七重塔は、741(天平13)年聖武天皇の「国分寺建立の詔」をうけて建立された相模国分寺の伽藍の一つです。国分寺の塔には、国家の平和を祈る金光名最勝王経が安置されていました。過去2回行われた発掘調査によると基壇(建物の基礎となる土壇)は一辺の長さが20,4m、高さは1,3mの規模で、だん損す残存する礎石から塔の初重の広さは10,8m四方、塔の高さは65mにも及ぶものであったと推定されています。また、基壇周辺で発掘された石敷きや盛土から、2回の修理もしくは立替が行われたことも分かりました。この塔は、海老名市観光協会が、故大岡實氏の復元図を基に実物大の三分の一のスケールで建設したモニュメントであります。
平成四年十二月竣工 海老名市観光協会
東部排水路暗渠 排水路は厚木街道から開放
厚木街道を西に進む 小田急海老名跨線橋8:49
小田急海老名跨線橋から大山
小田急線を跨線橋で渡る 跨線橋の上から丹沢大山眺望がよい
海老名耕地から有馬耕地にかけての水田地帯には大規模な方形の区画割りがあり、現在でも畦道や道路にその痕跡が残っています。また、一大縄~五大繩といった地名が残っています。この区画割りは、奈良時代の班田収受に基づく口分田のためのものとの説があります。四大繩遺跡で水田の発掘調査が行われ、鎌倉時代から江戸時代の水田は見つかりましたが、奈良~平安時代の水田はまだ見つかっていません。
一大縄橋暗渠 相模線の踏切を渡る
西に河原口へ51号線を直進 二股交差点を北に行くと左に庚申塔
100m先總持院9:11 總持院の東大寺型八角燈籠
東大寺型八角燈籠唐金製高さ2,4m(8尺)
獅子口本堂の大棟飾
北へ向かうと有鹿神社9:18 有鹿神社裏相模川に水道橋
相模川左岸を下る圏央道 三川合流部9:39
相模川八景 三川合流点と大山の案内板
相模川・中津川・小鮎川が合流するこの地域は、その昔屋形船などの舟遊が盛んに行われたところです。大山・丹沢を背景に、花見・鮎釣り、花火大会など、四季折々の相模川の風情が楽しめます。
河畔公園に入り下ると渡船跡 渡船場跡から大山の全貌9:41
渡船場跡から下流にあゆみ橋・相模大橋 相模大橋から厚木街道(大山街道)
旧厚木宿
江戸時代の厚木は、矢倉沢往還・八王子道など主な街道が交差する道筋にあり、常に人馬が往來し、「厚木宿」と呼ばれていました。現在の東町から厚木町にかけての県道沿いには、当時、豪商が軒を連ね、江戸に劣らぬ賑わいをみせていました。この一角。東二番において、市街地再開発事業に伴い文化財調査団により、平成3年3月から10月まで発掘調査が行われました。16世紀から20世紀に至る様々な生活の痕跡が発見され、この宿場の成り立ちを知る多くの成果を得る事ができました。
相模大橋下流に小田急線鉄橋 厚木神社10:02
【厚木神社由緒】
円融天皇(999~984)の時代、藤原伊尹公より勧請されたと伝えられたと言われております。鎌倉時代には那須与一が眼病平癒祈願をした伝説や、江戸烏山藩の陣屋が設けられた事等から厚木草創期より郷民の安寧と、政治経済の中心として尊敬されていた事が伺えます。 厚木神社の尊称は明治維新以後の名称であり、それ以前は牛頭天皇と称し今でも一般には「お天王様」と言われ、例祭には参詣の人々で大いに賑わいます。 明治六年に船喜多神社と熊野神社を合祀し、明治四十年には神奈川県より郷社に列格されました。
厚木神社境内に烏山藩厚木役所跡
史跡烏山藩厚木役所跡
1728(享保13) 年、下野の国(現在の栃木県) 烏山藩大久保氏が、相模国のある領地を支配するため、代官所を置いていた場所です。
ここには、烏山から出張してきた役人たちがいて、相模領内の年貢の取立てや、幕府から出される知らせなどを村々に触れまわす仕事などをしていました。この碑は、根府川石でできており、高さ2.3m、幅1m、厚さ13cmあります。
厚木神社前八王子街道南下小田急ガード 右に最勝寺10:37
最勝寺の子安地蔵 少し南に熊野神社10:41
熊野神社の大イチョウ
市指定天然記念物 熊野神社の大イチョウ
熊野のイチョウで知られるこの木は、根本で幹の直径が三メートル余りあり、途中で幹が二つに別れています。樹齢は四百五十年ぐらいと思われ、木の幹には乳状下垂が見られ、古木であることを示しています。この付近は、古くからうっそうとした熊野神社の森で、天保二年(1831)に厚木を訪れた三河田原藩士(現・愛知県田原町)渡辺崋山が描いた「厚木六勝図」の一枚「熊林暁鴉」(ゆうりんのぎょうあ=熊野の森に明け方群がる鴉)は、そのふうけいを描いたものとされています。平成二年三月 厚木市教育委員会
少し下って右に入ると知恩寺 智音神社神道法事一年祭中
智恩寺前を左に旧道に入る
ソニーテクノロジーセンター前に旧平塚街道石柱 富士見公園
平塚街道の沿って下る岡田一本杉バス停 先のY字路右へ
東名高速手前三島神社11:21 三島神社昼食12:00まで
境内に集められた道祖神 矢倉街道標識を入る
永昌寺 永昌寺観音堂
東名高速道路を潜り右に長徳寺12:05 本堂
長徳寺の本堂前の日本庭園 庭園の築山の上に親鸞聖人像
並んで法徳寺12:23 法徳寺には三つ葉のリギダ松がある
街道を下ると岡田川用水橋 用水橋手前左に道祖神
八王子街道三叉路の石仏を右に 信号手前酒井寅薬師12:36
酒井寅薬師奥に法雲寺 観音像
岡田信号直進601号を渡る 129号線を渡り玉川橋
玉川橋右岸に口づけをする道祖神 街道を西に進むと祠がある
右に稲荷神社を送る 右に石仏
左側が拡幅されたのか石仏 小田原厚木道路下片平
交差点右角に富士講の祠 玉川橋に大山道の標識橋下は暗渠
玉川橋を渡ると右に庚申塔13:12 愛甲宿進路は南に下る
右に入ると大厳寺13:15 坂上の六地蔵
大厳寺本堂で御住職のお話總持寺に勤務 隣の円光寺山門
円光寺は法要中外で参拝13:29 円光寺を右の交差点左に庚申塔
庚申塔信号を右に上る 小田急線跨線橋手前左にに道標
小田急線愛甲石田解散13:40 有志で忘年会
原稿提出後に下見したため、資料では長丁場の予定でしたが、比較的楽な平坦歩きでした。残り三回は冬の大山歩きになります。
雪や凍結に対処の準備をお願いします。来年も健康に留意してご参加下さい。良い年になりますようお祈り申し上げます。平山亨