2016.02.07 【大山街道No7】 報告 平山亨
大山街道7
平成28年2月7日(日)曇り
リーダー:平山亨
協力L:佐野俊一郎
協力者:佐々木純子
参加L:中嶋要一
参加者27名 男性8名 女性19名
コース:小田急線伊勢原駅9:01→伊勢原大神宮9:17→東名伊勢原9:43→石原橋(ここより大山街道)10:04→第二東名高速工事→石倉神社→比比多神社10:23→地蔵院易住寺10:37→這子坂→JA伊勢原→諏訪神社10:59→三の鳥居二ツ橋11:03→新王橋11:10→加寿見橋11:15→愛宕橋11:22→良辯滝11:30→大山ケーブルバス停11:37→こま参道11:46→追分駅11:59→八意思兼神社12:03~12:25昼食→前不動12:45→大山寺12:42→下社13:25下社社殿前解散13:31 大山街道最終回阿夫利神社本社、奥の院登頂、8回目は下社出発
大山街道
江戸赤坂御門を起点としして、雨乞いで有名な大山阿夫利神社(神奈川県伊勢原市)までの道です。東海道と甲州街道の間を向かう脇往還(五街道など本街道以外の支街道で、休泊機能の備わった道)として、「厚木街道」「矢倉往還」等とも呼ばれてきました。文九(1669)年には、溝口村、二子村が矢倉沢往還の宿として定められています。江戸時代中期には、庶民のブームとなった「大山詣り」の道として盛んに利用されるようになり、この頃から「大山道」「大山街道」として、有名になりました。江戸時後期には、駿河の茶、真綿、伊豆の椎茸、乾魚、秦野地方のたばこ等の物資を江戸に運ぶ大切な輸送路として利用され、これらを商う商人たちで大変栄えました、このように大山街道は多くの人々や物資が往來し、文化や情報が行き交い、様々な交流が生み出されてきた歴史ある街道です。
大山街道は途中いくつも脇道に入り込んだ、神社、仏閣、があり、道路拡幅のため庚申塔、道祖神、道路標識等が移設され、もしくは一箇所に集められています。街道あるきはこのような、い行ったり来たりして、古い歴史に会う旅でもあります。このブログもそのような考えで道案内的な形にしたいと報告しています。
神社仏閣の案内はhttp://www.tesshow.jp/参照
小田急小田原線伊勢原駅9:01 阿夫利神社一の鳥居9:04
県道61号信号を北西に進む信号渡り 右に伊勢原火伏不動尊9:08
国道246号線信号手前伊勢原大神宮9:17外宮と内宮の神殿が並ぶ
勢原大神宮http://www.daijingu.net/ご祭神
内宮(ないくう)…天照皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)
外宮(げくう)…豊受姫大神(とようけひめのおおかみ)
由緒
当神社の創建は、江戸時代初期の元和年間(1615~1624)のことであると伝えられております。
元和六年(1620)伊勢の国の人・山田曾右衛門と鎌倉の人・湯浅清左衛門は、大山参詣の途中、千手原という松原に一夜の宿を求めたところ、水音を聞いて開墾可能であることを悟り、当時このあたりを支配していた中原代官成瀬五左衛門の許可を得て、開墾に着手したのです。そこにだんだんと粕屋あたりより人が集まり現在の伊勢原市街の基礎が形成されました。曾右衛門は、この新しい開拓地の鎮守として、故郷である伊勢の神宮の神様を勧請し、奉祭することにいたしました。こうして創建された当神社の御祭神に由来して当地は伊勢原と呼ばれるようになりました。
ンボルマーク
このシンボルマークは当宮の内宮と外宮を表現したものです。丸と四角・赤と白・人と自然をイメージしてデザイン化されています。「ひとりよりふたり」「ひとつよりふたつ」のテーマによりお互いが存在して、はじめてつり合いがとれ、平穏な世の流れを生み出します。
【 縁結び・夫婦円満・子宝 】など、人生諸事何事も穏やかに進むよう【万事円満】を祈念する伊勢原大神宮の象徴となっています。※デザインは伊勢原出身の画家、平野杏子さんの作品です
内宮外宮一人より二人がいい 国道246号伊勢原交差点9:24
大山道は左に 東名高速手前〆引五霊社9:43
〆引高速道路下高速道路 トンネルは美術館
高速下を出ると山口家住宅9:45山口家住宅 庭に移設された五霊社に埋まっていた復元道標
山口家住宅http://www.ugakubunko.com/htdocs/?page_id=19 雨岳文庫・山口家住宅 *国登録有形文化財*
山口家住宅(間部家地代官所)
山口家住宅は、木造2階建て、片入母屋造・トタン葺で、主要部が梁間6間・桁行10間の大規模民家です。1階には広い土間があり、床・違棚・付書院を設けた座敷をもちます。また、民家ながら2階が設けられているのも特徴で、2階の座敷は随所に精巧な細工が施された凝った数寄屋造です。山口家住宅には多くの障壁画や欄間が残されており、平成10年には国の登録有形文化財となるなどその価値が認められています。
五霊社は大山道と八王子道と交差する場所にあり、その角に建てられていたものである。
山口家巽の井戸と山口家雨岳文庫資料館10時開館
資料館前に石尊大権現の碑 山口家庭を借り衣類調整
阿夫利神社二の鳥居9:50二の鳥居 横に大山道の道標の案内
二の鳥居前に石材店、一休さんかわいい!の声
石倉橋、七回目の大山街道はここから始まる10:04新東名のIC用地
IC脇に移設された道標道祖神大山街道から東に七沢への分岐10:10
信号を右に入ると左に石倉神社
大山街道に戻り進むと新東名工事現場工事用地右に道祖神
進行先に比比多神社10:23
境内に歌川国経筆美人図絵馬の説明比比多神社裏の廃屋
千歳橋を渡る10:33 旧道坂上の右地蔵院易住寺10:37
易往寺の地蔵尊
右に旧道に入る比々多神社休憩10:40 神社先を右に這子坂
坂の途中に地蔵尊と石仏10:44 大山道に戻り先にJA伊勢原
子易バス停を過ぎると急坂左に諏訪神社10:59 阿夫利神社三の鳥居11:03
鳥居を過ぎると民家の庭?を通る
大山街道に二ツ橋を渡り入る
旧道の狭い道をバスは通る新王橋11:10 鈴川新王橋上流
旧道を角家で右折、歓迎門と大山道左に宿坊が並ぶ
鈴川に架かる加寿見橋を左岸旧道に入る11:15
鈴川加寿見橋上流旧道は左に急坂を登る、並ぶ宿坊
急坂を上って行く右に阿夫利神社社務局
宿坊が並ぶ中を 上って行く大山道左岸を詰めると愛宕滝11:22
愛宕橋で右岸 急な豆腐坂を上る
豆腐坂には豆腐を作る店が並ぶ あえぎ坂を上ると右に良辯滝に入る、日の出橋
開山堂11:30左隣に良辯滝
良弁僧正開山堂大山街道の良弁滝の隣りに開山堂があります。この中には大山を開いた良弁僧正の43歳の時の座像と猿が金鷲童子(こんじゅどうじ)を抱いた像が安置されています。なお、開山堂とは仏教寺院において開山の像を祀った堂で、開山とは当該寺院に最初に住した僧のことを指します。
良辯滝
大山寺開山(天平勝宝七年・七五五年)に良辯僧正が入山、最初に水行を行った所。高さ一丈三尺(三メートル九十四センチメートル)江戸時代、たびたび錦絵や版画の題材に取り上げられ、大山時代には、歌舞伎「大山と家光」で「大山良辯滝の場」として演じられた。大山観光青年専業研究会
石段を上り左に開亀橋を渡り 右岸参道に出る開亀橋上流
鈴川に沿って車道を上る右の階段を上ると 大山ケーブルバス停11:37
あぶり橋大山ケーブルバス停から大山下社を目指す
こま参道11:46
こま坂を詰めると元滝11:58
元滝前の社、雨冠に龍の読みは?雲井橋11:59
大山寺への石段を上る 八意思兼神社
八意思兼神社神社境内を借用昼食12:03~12:25
新王橋を右岸に渡る女坂を上る
女坂を上る紅葉橋と女坂の七不思議子育地蔵
紅葉橋の下女坂の七不思議弘法水荒れた石段上に女坂の七不思議爪切り地蔵
弘法の水弘法大師が杖を突いたら湧き出したという。
子育て地蔵いつの間にか童(わらべ)の顔に変わったという地蔵尊。
爪切り地蔵弘法大師が手の爪で一夜のうちに彫ったと伝えられる。
無明橋(むみょうばし)話をしながらわたると悪いことが起こる橋。
潮音洞(ちょうおんどう)潮騒の音が聞こえる洞。
逆さ菩提樹幹の上の方が下よりも太くなっている菩提樹。
眼形石(めかたいし)ふれると眼の病気が治る石。
その上に女坂の七不思議逆さ菩提樹さらに上る前不動
登山道側に龍神堂すぐ上に大山寺の石段12:42
大山寺に上る山寺本堂12:48
大山寺
大山寺は、奈良の東大寺を開いた良弁僧正が天平勝宝七年(七五五)に開山したのに始まります。
行基菩薩の高弟である光増和尚は開山良弁僧正を継いで、大山寺二世となり、大山全域を開き、山の中腹に諸堂を建立。その後、徳一菩薩の招きにより、大山寺第三世として弘法大師が当山に入り、数々の霊所が開かれました。大師が錫杖を立てると泉が湧いて井戸となり、また自らの爪で一夜にして岩塊に地蔵尊を謹刻して鎮魂となすなど、現在は大山七不思議と称される霊地信仰を確立しました。
また日本古来の信仰を大切にし、尊重すべきとのお大師様のおことばにより、山上の石尊権現を整備し、伽藍内に社殿を設けるなど神仏共存を心掛け手厚く神社を保護してきました。元慶八年には天台宗の慈覚大師の高弟・安然が大山寺第五世として入山。伽藍を再興し、華厳・真言・天台の八宗兼学の道場としました。
これより大山は相模国の国御岳たる丹沢山系の中心道場として各地に知られ、別当八大坊をはじめとする僧坊十八ケ院末寺三、御師三百坊の霊山として栄えました。
しかし明治初年の廃仏毀釈により、現阿夫利神社下社のある場所から現在の場所に移りました。
関東一円を初め日本中の強い信仰に支えられ、幸いにもご本尊を初めとする,数々の寺宝は破壊を免れました。
明治期に数多くの信者たちの寄進によって現在の位置に本堂をはじめ数々の伽藍が再興され現在に至っています。大山寺はまさに多くの信者に支えられた一大霊地といえます。
大山寺裏の女坂の七不思議無明橋 少し上ると女坂の七不思議潮音洞
潮音洞上を上ると女坂の七不思議眼形石
大山ケーブル大山寺駅上を走るケーブルトンネルうえを通り
女坂を上る 女坂を上男坂合流点
男坂分岐13:15男坂入口に八大坊上屋敷跡13:17
阿夫利神社境内門ケーブルで上がった二人阿夫利神社拝殿13:25
大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)は、今から二千二百余年以前の人皇第十代崇神天皇の御代に創建されたと伝えられている式内社でございます。 古くから相模国は許より関東総鎮護の霊山としてご崇敬を集めて参りました。海抜一二五一米の山頂からは、祭祀に使われたと思われる縄文土器が出土しており、当山の歴史の古さを物語っております。
大山は、別名「あめふり山」とも呼ばれ広く親しまれてきました。このあめふりの名は、常に雲や霧が山上に生じ、雨を降らすことから起こったと云われ、古来より雨乞い信仰の中心地としても広く親しまれて参りました。
奈良時代以降は神仏習合の霊山として栄え、延喜式にも記される国幣の社となりました。そして、武家の政権始まった後も源頼朝公を始め、徳川家等の代々の将軍は当社を信仰し、そして武運長久を祈りました。庶民からの崇敬も厚く、人々は「講」という組織を作り挙って大山へ参拝をしました。隆盛を極めた江戸期には年間で数十万が訪れたと記録されています。「大山詣り」と呼ばれた当山への参詣は古典落語の中でも語られ、著名な浮世絵師によって多くの浮世絵も残されています。そうした作品に描かれた躍動感溢れる人々の姿からも、いかに大山が当時の人々にとって身近な存在であったかを窺い知ることが出来ます。
また人気を博した大山詣りを背景に、多くの独特な文化が生み出されたことも大山の特徴です。源頼朝公が刀を納めた事から起こった木太刀を納める納太刀、当社の御祭神が富士山の御祭神である木花咲耶姫の父君に当たることから「富士に登らば大山に登るべし、大山に登らば富士に登るべし」と伝えられ、大山と富士山の両山をお参りする「両詣り」も盛んに行われました。一部地域では、大山に登れば一人前として認められると伝承されていたとも云われ、立身出世の神としても知られています。他にも一年の天候を占い農作物の豊凶を占う筒粥神事、天地の魔と穢れを祓う引目祭、夏の山開き、火祭薪能などの多種多様な神事が現在も行われ、三百年以上の伝統を誇る大山固有の大山能、そして巫女舞、倭舞も今に継承されております。
阿夫利神社は、古代から人々の心の拠り所となり、国を護る山・神の山として崇められてきました。
山野の幸をつかさどる水の神・山の神として、また、海上からは羅針盤をつとめる海洋の守り神、さらには、大漁の神として信仰をあつめると共に、山岳信仰の中心として、今日に及んでいます。
境内の大山獅子拝殿下に大山名水
拝殿下に祀られている道祖神
阿夫利神社解散13:31 阿夫利神社境内から湘南海岸
次回8回目は3月6日阿夫利神社本社、奥之院に登る登山口です
ケーブルカーで下山
ケーブルカー追分駅根之元神社13:47
午後はしぐれて雪の舞う寒い日でした。伊勢原から実働4時間のゆるやかな上りと、急坂と不揃いな急な石段を、ただひたすら登るという歩きでした。大変疲れたと思います。次回は下社から頂上を目指します。私のリーダー最後の山行になります。短い期間でしたがご協力に感謝致します。平山