2016.04.23 【総本山巡り總持寺祖院】 報告 佐野俊一郎
総本山巡り總持寺祖院
平成28年4月23日(土)~25日(月)天気晴れ
リーダー:佐野俊一郎
協力者:平山亨・佐々木純子
参加者:20名 男性5名 女性15名
總持寺祖院参禅拝宿と奥能登を歩く
軽井沢のバス事故に鑑みバス山行を新幹線利用に変更、出発を一日遅れの23日とする。
北陸新幹線東京発7:20発(かがやき)=金沢着9:51、北鉄能登バスの時刻変更によりアクセスが悪く計を変更、三交バスを三日間借り上げ、金沢駅=輪島の送迎と、奥能登を訪ねる
【4月23日金沢到着10:06】(土)天気晴れ
のと里山海道 のと里山海道と日本海
道の駅高松10:46
今井I.Cから千里浜なぎさドライブウェイ 11:01
千里浜I.Cからのと里山海道 巌門パーキングから観光船
国道249号線を北上、富来で36号を南下巌門に向かう
能登金剛:石川県、中能登の海岸線一帯の、景勝地の海岸線指している、福浦から関野鼻あたりまでの志賀町一帯の約30km に亘って奇岩、奇勝、断崖が連続する海岸線である。1968年に能登半島国定公園の指定を受けた際に、岩礁の美しさが、朝 鮮半島の金剛山に似ている所から、この能登金剛の名が付けられた。
巌門や関野畠、器具岩、義経一太刀岩、ヤセの断崖、増穂浦海岸など見どころが多く、日本海の荒波の侵食により、切り立 つ断崖やその岩肌が、様々な造形美を見せる場所として知られる。2007年3月25日に発生した能登半島地震による影響で、 現在見学できないところもあるので注意。
ヤセの断崖:石川県志賀町ににある、風光明媚な景勝地として知られる能登金剛にある絶景スポットで、松本清張の推理小 説「ゼロの焦点」の舞台として有名になった場所。2007年3月25日に発生した能登半島地震により。幅10mにわたって名所で あった崖が崩落し、かっての面影は消えつつあるが、崩落前の断崖の高さは35mあり、足がすくむ場所として人気の観光地 となっていた、。現在は危険のため、手前に柵ができ、そこから海を望むカタチとなっている。
展望台
とき海街道道の駅12:22 249号線を北上
深谷から49号線で南下 ヤセの断崖義経の舟隠し
義経の船隠し伝説の岩場(先端部分)
12:49昼食
赤神隧道13:34 總持寺祖院門前13:52
山内に入る 明治の火災を逃れた経堂13:56
これより参禅拝宿写真撮影はできません
總持寺祖院
大本山總持寺は明治時代の大火を機に能登から鶴見に移転したが、能登の總持寺も復興され「祖院」と呼ばれる。建物と しては、前田家の寄進の経蔵が1898の火災を免れ、山門や仏殿・法堂などの伽藍は再興されている。1321年(元亨元)、永光寺住職だった瑩山紹瑾が真言宗・諸嶽寺観音堂の定賢と同時期に、寺を譲られる夢を見て招請されたのが始まり。
【4月24日奥能登周遊】(日)天気晴れ
座禅・朝勤・本堂と、右仏殿工事中4:58 本堂内陣
本堂裏に不動明王・西国三十三観音 退出
山門前にて8:32
249号道路を輪島市に向かう 輪島千枚田9:26
神奈川から田圃作り
249号を曽々木信号を右に6号線に入り左に時国家を見て上時国家家へ
http://www.tokikunike.com/rekishi.htm
平安時代末期、平清盛によって栄華を極めた平家は、文治元年(1185)壇ノ浦の合戦で源義経率いる源氏軍勢に破れ、この時 、平家団結の象徴であられた安徳天皇は御歳八歳で二位の尼に抱かれ御入水されました。平家方生存者の殆どは、鎌倉幕府の厳しい追求の中、離散の生活を始めました。生存者中最高重臣であった平大納言時忠は、源義経との約束により能登の地 へ配流され、文治五年二月二十四日この地で没しました。
当家の初代は文治元年(1185)能登に配流された平大納言時忠です。時忠の子、時国の代より当地で農耕を営み、時国村を成 しました。時を経て天正九年(1582)能登は加賀前田藩領に、その後慶長十一年(1606)には時国村の一部が越中土方領となり 、時国家は二重支配を受けることとなりました。
寛永十一年(1634)十三代藤佐衛門時保は時国家を二家に分立し、当人は加賀藩領に居を定めました。当家はその加賀藩領の 時国家であります。江戸時代を通して、山廻役、御塩懸相見役、御塩方吟味人役など藩の役職を代々受け継ぐとともに、農業、塩業、廻船業などを営んでいました。
上時国家
裏庭に心字池
窓岩曽々木10:44 垂水の滝曽々木海岸
峠のレストランで昼食
禄剛埼灯台12:49 日本列島ここが中心の碑
禄剛埼灯台~日本で唯一「菊の御紋章」がある灯台~
この灯台は、能登半島の最北東端の地、ここ禄剛埼に建てられ、明治16年(1883年)7月10日初点灯しました。今も建設当時の明治の面影を残しながら、禄剛埼沖を航行する船舶のみちしるべとして重要な役目をしています。また電波標識の無線方位信号所も併設しています。
昭和38年(1963年)まで職員が常駐して管理していましたが、機器の自動化に伴い現在は無人の施設で管理事務所から定期的に巡回管理しています。
能登半島国定公園禄剛埼
この岬は、能登半島の先端で秋晴れの日には佐渡を望むことができます。灯台下の集落を狼煙といい、昔、北海道警備の為に山伏山に狼煙台を設け、狼煙をあげたことからこの地名がついたといわれています。
集合場所へ13:06 禄剛埼を南に須須神社13:30
先端を回り込むように南下見附島 残念島には渡れない13:58
恋路ベル若い人も爺も鳴らしていた 恋路海岸んにも愛のベル14:28
国定公園能登半島恋路海岸
約700年の昔、木郎の里の助三郎と、多田の里の鍋乃は人目を忍んでこの浜で逢瀬を重ねていた。暗い夜、鍋乃のともす灯 は助三郎の唯一の目標であり、愛する二人を結ぶ希望の火でもあった。 鍋乃に思いを寄せるもう一人の男源次は、二人の仲をねたみ、火を崖のはずれに移してだまし、助三郎は深い海から帰らぬ人となり、鍋乃も源次のの求愛をしりぞけ、海に身を投げ、助三郎の後を追った。この悲しい恋の物語を秘めた浜は、いつの頃からか「恋路」と呼ばれる様になったと伝えられる。
輪島に向かう輪島着14:00
【4月25日朝市と金沢】(月)天気晴れ
輪島の夜明け5:15 朝の散歩
鳳至川と河原田川の合流部の中洲
市役所 輪島の朝市にお出かけ7:42
客はまばら
朝市と別れ気になる場所善龍時 気になる木は墓地だった
隣に蓮江寺8:06 山門
本堂 輪島の朝市
http://wajimaonsen.com/article_detail/66_1.html
一千年以上も前から続く、輪島の朝市。この歴史の中で売る者と買う者との心の触れ合いが生まれてきました。売る者も女、買う者も女の朝市。町の一日は、朝市の「買うてくだぁー」の呼び声から始まります。野菜などは周辺農家のおばちゃん、活きのいい魚貝・海草は漁師町の女衆が売りに出ます。朝市で売られるものに「値札」はあまり付いていません。値段は交渉しだい、買い手も売り手もこれを楽しんでいるのです。輪島を訪れた都会の主婦は「朝市で買って、料理をすれば、どんなに楽しいだろう」、「活きのいい魚、艶のある野菜、気安く、気軽に買える輪島の朝市が何よりもうらやましい」と言います。
JR金沢駅金沢市内自由散策13:00
金沢城・兼六園、忍者屋敷妙隆寺、美味しいものを探しにそれぞれ出発する。
我々金沢城・兼六園組は、途中真宗大谷派東別院に立ち寄り、兼六園で一部別れて武家屋敷を巡る。
真宗大谷派東別院
真宗大谷派金沢別院は、ひろく「東別院」と呼ばれ、宗祖親鸞聖人があきらかにされた念仏を聞法する道場です。受付で戦国時代からのお話を聞く。
駅前を直進武蔵三叉路を左へ 黒門から入る13:33
金沢城石川門搦手門 左菱櫓五十軒長屋
菱櫓右 お掘り通りを渡り兼六園に入る
眺望台兼六園の北東 真弓坂に下る14:06
金沢城鯉喉櫓台 金沢城いもり堀の石垣
左市役所前通りを香林坊へ 市役所前に堂形のシイノ木
香林坊交差点に建つ香林坊地蔵尊14:19 武家屋敷14:23
2016/5/7 土曜日 at 00:43
富山の旅大変楽しかった様子拝見しました。私は都合で参加できませんでしたが、
お天気もよかったようで充実した旅でしたね。富山湾からの北アルプスの眺めは
いかがでしたか。私は来週所属する組合の全国大会で京都にいきますが、京都御所
や 東寺等を拝観します。希望ですが神社仏閣巡りも好きですが歴史散策等も入れて
頂ければ有難いですが(当会の趣旨である山行と少し離れますがいかがでしょうか)