2017.03.19【車山~鉢形城跡】報告 保倉L
実施日:平成29年03月19日(日) 晴れ レベル一般向
リーダー:保倉 惠美子
協力リーダー:辰巳 哲夫
サブリーダー:岩間 英之(投稿者) 金子 敬
協力者:武藤 進
参加リーダー:佐野 満喜子
参加者:38名(男性14名 女性24名)
コース:八高線 折原駅 09:46下車 歩行開始10:05→車山10:40→県道11:30→諏訪神社12:00→鉢形城跡散策&昼食(12:10~12:50)→正喜橋13:40→寄居駅入り口(解散)13:45→玉淀駅14:00
歩程:3.5時間
行動時間:4時間00分
歩程:3.5時間
行動時間:4時間00分
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山頂にある祠
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10:45 下山開始
寄居方面を望む
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木と竹の混合林の中を急下降
都岳連 武藤氏にロープをはって頂きました。
お陰様で全員無事下山
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12:00 諏訪神社
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12:10 鉢形城跡
鉢形城跡は、戦国時代の代表的な城郭跡として、昭和7年に国指定史跡となりました。城の中心部は、荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれていて、天然の要害をなしています。この地は、交通の要所に当たり、上州や信州方面を望む重要な地点でした。
鉢形城は、文明8年(1476)関東管領(かんとうかんれい)であった山内(やまのうち)上杉氏の家臣長尾景春(ながおかげはる)が築城したと伝えられています。後に、この地域の豪族藤田泰邦(ふじたやすくに)に入婿した、小田原の北条氏康(ほうじょううじやす)の四男氏邦(うじくに)が整備拡充し、現在の大きさとなりました。関東地方において有数の規模を誇る鉢形城は、北関東支配の拠点として、さらに甲斐(かい)・信濃(しなの)からの侵攻への備えとして重要な役割を担いました。
天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、後北条氏の重要な支城として、前田利家・上杉景勝等の北国軍に包囲され、攻防戦を展開しました。1ヶ月余りにおよぶ籠城(ろうじょう)の後に、北条氏邦は6月14日に至り、城兵の助命を条件に開城しました。
開城後は、徳川氏の関東入国に伴い、家康配下の成瀬正一(なるせまさかず)・日下部定好(くさかべさだよし)が代官となり、この地を統治しました。
なお、鉢形城跡は「21世紀に残したい埼玉ふるさと自慢100選」に選ばれています。
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広い鉢形城跡公園で昼食(12:10~12:50)
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鉢形城跡公園の井戸
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エドヒガン
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正喜橋上より荒川の流れ
13:45 寄居駅入り口付近で解散 寄居駅と玉淀駅へ別れて向かう
山頂にある祠
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10:45 下山開始
寄居方面を望む
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木と竹の混合林の中を急下降
都岳連 武藤氏にロープをはって頂きました。
お陰様で全員無事下山
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12:00 諏訪神社
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12:10 鉢形城跡
鉢形城跡は、戦国時代の代表的な城郭跡として、昭和7年に国指定史跡となりました。城の中心部は、荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれていて、天然の要害をなしています。この地は、交通の要所に当たり、上州や信州方面を望む重要な地点でした。
鉢形城は、文明8年(1476)関東管領(かんとうかんれい)であった山内(やまのうち)上杉氏の家臣長尾景春(ながおかげはる)が築城したと伝えられています。後に、この地域の豪族藤田泰邦(ふじたやすくに)に入婿した、小田原の北条氏康(ほうじょううじやす)の四男氏邦(うじくに)が整備拡充し、現在の大きさとなりました。関東地方において有数の規模を誇る鉢形城は、北関東支配の拠点として、さらに甲斐(かい)・信濃(しなの)からの侵攻への備えとして重要な役割を担いました。
天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、後北条氏の重要な支城として、前田利家・上杉景勝等の北国軍に包囲され、攻防戦を展開しました。1ヶ月余りにおよぶ籠城(ろうじょう)の後に、北条氏邦は6月14日に至り、城兵の助命を条件に開城しました。
開城後は、徳川氏の関東入国に伴い、家康配下の成瀬正一(なるせまさかず)・日下部定好(くさかべさだよし)が代官となり、この地を統治しました。
なお、鉢形城跡は「21世紀に残したい埼玉ふるさと自慢100選」に選ばれています。
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広い鉢形城跡公園で昼食(12:10~12:50)
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鉢形城跡公園の井戸
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エドヒガン
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正喜橋上より荒川の流れ
13:45 寄居駅入り口付近で解散 寄居駅と玉淀駅へ別れて向かう
参加者の皆さまお疲れ様でした。各人の細心の注意と急坂の下りで都岳連の武藤さんにロープを張っていただき、全員無事に下山できました。
楽しい山行になり感謝しております。ありがとうございました。
保倉 惠美子